2023年3月30日 (木)
2020年12月29日 (火)
2020年に観た映画とドラマ(備忘録)
2020年12月16日 (水)
卒論審査の基準公開
2020年8月20日 (木)
議論を誘発する『赤い闇 スターリンの冷たい大地で』
2020年6月13日 (土)
捜査幹部から賭けマージャンの誘いを受けたら 連載「ジャーナリズムの道徳的ジレンマ」第23回
2020年5月22日 (金)
取材源の秘匿について-産経新聞「主張」を批判する
2020年5月19日 (火)
新聞書評『沖縄で新聞記者になる』
2020年3月30日 (月)
記者たちの省察~『沖縄で新聞記者になる』を書いて
2020年3月23日 (月)
『沖縄で新聞記者になる』トークライブ@那覇
2020年3月22日 (日)
『ジャーナリズムの道徳的ジレンマ』ワークショップ@新聞労連JTC
2020年3月 8日 (日)
3・14 新聞労連の研修会でワークショップ
2020年2月21日 (金)
3・19 那覇で新刊トークイベント
2020年2月17日 (月)
『沖縄で新聞記者になる:本土出身者たちが語る沖縄とジャーナリズム』出版しました
2019年11月29日 (金)
『ジャーナリズムの道徳的ジレンマ』重版出来!
2019年11月 7日 (木)
ゼミ学生の推薦状
2019年10月27日 (日)
被害者の実名報道について
2019年6月19日 (水)
調査者の属性についての備忘録
2019年6月 5日 (水)
授業で『ジャーナリズムの道徳的ジレンマ』を使う方法 連載「ジャーナリズムの道徳的ジレンマ」第22回
2019年4月15日 (月)
教授になりましたが
2019年2月14日 (木)
戦没新聞人の碑とカメジロー
これまで仕事のため沖縄を数回訪れていますが、今春ようやく「戦没新聞人の碑」の前に立ちました。この碑はわたしが生まれた1961年9月の末に建立されています。除幕式のようすについて、毎日新聞はベタ記事で次のように伝えています。
【那覇三十日三原特派員】沖縄で戦死した新聞人十四人の功をたたえる「戦没新聞人の碑」の除幕式が新聞週間を前に(1961年9月)三十日午後、遺族をはじめ瀬長琉球政府副主席、新聞、放送関係者ら約百人が列席那覇市波上、旭加丘で行われた。戦没者のうち十二氏は、当時の沖縄新聞社の関係者で、そのほとんどは輪転機を最後まで守り砲爆撃に倒れた。他の二氏は宗貞利登朝日新聞那覇市局長、下瀬豊毎日新聞那覇支局記者で、激烈を極めた戦場で報道の任務に散ったものである。
この碑の前で慰霊祭が毎年営まれているようですが、胸中は複雑です。というのも当時の新聞人は戦時宣伝の担い手だったからです。「自由な報道が許されず不本意であった」という人が皆無だったとは思いませんが、むのたけじさんの回想などを読んでいると、当時の新聞倫理がどのようなものであったかは容易に想像できます。沖縄でどのような新聞が発行されていたかについては、琉球新報社の『沖縄戦新聞』でも一端が紹介されています。
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2018年11月28日 (水)
階層社会と勉学の向上心
清水義範のエッセー『目からウロコの教育を考えるヒント』の中に、ハっとする記述を見つけました。清水は、名古屋出身のSFエンターティンメント作家で、教員免許を持つことから、その方面のエッセーも多数手がけています。『目からウロコの~~』もそんな作品のひとつで、初版は2001年です(このころ生まれた子供たちを、わたしが大学で教えています)。
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2018年11月 3日 (土)
「華氏119」が描く大手メディアの欠陥
映画「華氏119」で感心したのは、マイケル・ムーア監督がドナルド・トランプの個人的資質だけを問題にしているのではなく、むしろメディアの構造的な欠陥をわかりやすく示していたことです。日本在住の私たちも他人事ではありません。他山の石として学んでおく価値があると思いました。
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2018年10月31日 (水)
「朝日ぎらい」を変える
「もう、『マスコミが悪い』と突っ込まなくなりましたよ」。先日、ある市民講座のあとで受講生からそんなコメントをもらい嬉しくなりました。その方は、学生時代に『朝日ジャーナル』や『世界』の読者だった団塊世代で、いつしかすっかり「朝日ぎらい」に。わたしの授業が変化の契機になったとすればうれしいですね。
わたしは、龍谷エクステンションセンターが運営する市民講座で「ジャーナリズムの道徳的ジレンマ~報道現場の難問を考えるワークショップ」という授業を担当しています。この授業は、報道倫理の難問をさまざまな角度から考える一種の哲学カフェです。わたしの主な役目はお題の提供とタイムキーパー。受講生同士が小グループに分かれて意見を聴き合い、最後は各グループでまとめた意見をクラス全体で共有するというのが授業の流れです。
対話型の授業は、いわば「文殊の知恵」的な解を求めるというよりも、むしろ、意見の違いを際立たせ、異なる意見を尊重しあうことに力点を置きます。「論破」とはまったく違うスタイルです。
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2018年8月31日 (金)
『ジャーナリズムの道徳的ジレンマ』を出版しました
『ジャーナリズムの道徳的ジレンマ』が2018年8月31日、発売されました。この本は学術出版・勁草書房の編集部が運営する「けいそうビブリオフィル」で連載していたものを単行本化したものです。必要に応じて加筆修正を施し、新たに書き下ろした章も盛り込まれています。宣伝めいて恐縮ですが、構想10年、執筆2年余です。よろしくお願いします。
■紹介
報道倫理のグレーゾーンに潜む20の難問。現場経験も豊富な研究者ならではの視点で再考する、ジャーナリズムの新しいケースブック。■内容説明
ニュース報道やメディアに対する批判や不満は高まる一方。だが、議論の交通整理は十分ではない。「同僚が取材先でセクハラ被害に遭ったら」「被災地に殺到する取材陣を追い返すべきか」「被害者が匿名報道を望むとき」「取材謝礼を要求されたら」など、現実の取材現場で関係者を悩ませた難問を具体的なケースに沿って丁寧に検討する。■章タイトル
第1章 人命と報道
第2章 報道による被害
第3章 取材相手との約束
第4章 ルールブックの限界と課題
第5章 取材者の立場と属性
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2018年8月25日 (土)
『ジャーナリズムの道徳的ジレンマ』届きました
昨夜遅く『ジャーナリズムの道徳的ジレンマ』10冊が自宅に届きました(本屋さんに並ぶ前に著者に届けられるんです)。ブックデザインや色合いは書影(画像データ)の通りですが、256頁はそれなりの質感ですが、ソフトカバーのA5判なので、カバン内でも邪魔にならないでしょう。
勁草書房編集部サイトの連載記事の誤字脱字を修正し、必要に応じて加筆修正し、新しい記事も追記してあります。アマゾンなどのネット書店では予約注文を受付中です。どうぞよろしくお願いします。
畑仲哲雄『ジャーナリズムの道徳的ジレンマ』勁草書房, 256頁, 本体2300円, ISBN 978-4-326-60307-7
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2018年8月24日 (金)
『ジャーナリズムの道徳的ジレンマ』の書影公開
版元の勁草書房サイトで、本のデザイン画像(書影)が公開されました。数日内にアマゾンや楽天などのネット書店にも登場すると思います。
羅針盤のNEWSの上で good bad right wrong の矢印が散らばっている絵柄は、本の中身をみごとに表してくれています。デザイナーさんありがとう。
『ジャーナリズムの道徳的ジレンマ』 勁草書房, 256頁, 2300円, ISBN 978-4-326-60307-7
勁草書房のサイトではAmazon以外の書店がリンクされています。アンチAmazon派は版元サイトからごらんください。
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2018年8月 6日 (月)
報道倫理の新しいケースブック
2018年度後期から、別の教員が受け持っていた「メディアと倫理」という講義を担当することになりました。授業内容は、ジャーナリズムの現場で実際に起こった悩ましいできごとを、グループディスカッションを通じて考えていくというものです。前任の教員とさほど変わりはありません。ただし教科書を使います。
『ジャーナリズムの道徳的ジレンマ』 勁草書房, 256頁, 2300円, ISBN 978-4-326-60307-7
版元サイトではAmazon以外の書店がリンクされています。アンチAmazon派は版元サイトからごらんください。
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2018年8月 5日 (日)
2018年前期おわる
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2018年5月11日 (金)
合同ゼミ
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2018年5月 8日 (火)
後輩の女性記者が取材先でセクハラ被害に遭ったら 連載「ジャーナリズムの道徳的ジレンマ」第20回
テレビ朝日の記者が財務次官からセクハラ行為に悩んでいた事例は、メディア関係者に波紋を広げています。オレがセクハラの加害者になるはずがない、と自信満々の人もいると思いますが、そんな人も「傍観者」と指摘される可能性があります。同僚や後輩がセクハラ被害者に遭ったことを知ったときのことをシミュレーションして考えたことがある人は、意外と少ないのではないでしょうか。
ハラスメントについての内規や相談窓口を完備しているメディア企業もあります。「わが社は専門家がいるので安心だ」という人もいるでしょう。でも、制度を作れば万事OKでしょうか。ルールブックは作る人や作られ方によっては妙なバイアスがかかるものですし、たえざる見直しが必要です。
〈CASE 20〉後輩の女性記者が取材先でセクハラ被害に遭ったら http://keisobiblio.com/2018/05/08/hatanaka20/
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2018年4月13日 (金)
同僚記者がセクハラ被害を受けたら
2018年4月12日、『週刊新潮』が財務省事務次官のセクハラを報じました。気になったので、わたしも新潮を買って、記事を読みました。
記事の中で発言を引用されていたのは次の6人。①大手紙記者、②テレビ局記者、③別のテレビ局記者、④別の大手紙記者、⑤テレビ局デスク、⑥財務省を担当する30歳のある女性記者。⑥は①~④と重複している可能性がありますし、取材協力者がほかにいるかもしれません。被害者は、大手紙や在京キー局の取材記者たちで、財務省担当者がターゲットになったことが分かります。
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2018年4月11日 (水)
学者を目指さない学生にとって良い論文とは
わが本務校、龍谷大学社会学部コミュニティマネジメント学科では、卒業研究が必修です。卒業制作で映像作品を作る学生もいますが、多くは卒業論文を提出します。どんな論文が良い論文なのかについて、あれこれ考え続けてきましたが、きょうのゼミで暫定的な結論を4年生に伝えました。
大学院に進学して、研究職を目指したいという学生には、やっぱり学術世界のモノサシで判断したいところです。つまり、着眼点や、問いと方法がカッチリしていることが重要です。しかし、将来学者になりたいとは思っていない学生に、それと同じモノサシを当てて評価するのは間違っていると思います。
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2018年4月 9日 (月)
ジャーナリズムに地域主義を
きょうから2018年度の授業が始まります。
龍谷大学社会学部の教員になったのが2013年春なので、この4月から6年目に突入です。共同通信社を辞め、博士論文の執筆に2年を費やした日々が、徐々に遠ざかっていることを実感します。2年間の間に東日本大震災があり、学術書と論文に埋もれている自分を、運が悪いと呪ったものです。でも、きょうまでやってこられたのは、編集者の同居人と東大の恩師に支えてもらったおかげでだと感謝しています。
また、今日までの間に、各方面の先生方から執筆のお誘いをいただき、いくつかの共著者の仲間入りをさせていただきました。まもなく、論創社から『危機の時代と「知」の挑戦』(照屋寛之・萩野寛雄・中野晃一編著)が刊行されます。上巻の第4章で「 国家に馴致されないメディアの必要――ジャーナリズムに地域主義を」と題した小論を発表させていただきました。執筆にあたり、東北福祉大学の長谷川雄一先生にはたいへんお世話になりました。あらためて感謝申し上げます。
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2018年4月 3日 (火)
入学式の翌日/歴史を背負って
きのう、龍谷大学社会学部がある瀬田キャンパス(滋賀県大津市)で入学式が行われました。わたしがこの大学の入学式に参加するのはこれで6回目です。どこか物悲しい卒業式に比べると、入学式は楽な気持ちで臨めます。ひとつ気になることがありました。式が始まる直前、式典会場のスクリーンに映し出された映像です。自宅でそれらしい動画を検索したら、Youtubeに以下の動画が公開されていました。BGMがFusion系ジャズやん、と思っていたら、Discovery Channelの制作でした。
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2018年3月17日 (土)
卒業式の翌日/祭りのあと
毎年のことですが、卒業式の翌日というは、なんだか寂しい感じがします。式当日はハレの日だし、着飾った教え子たちに「君ら卒業できて、ほんま良かったのー」とか「社会人になったら、もう遅刻はあかんで」などと軽口をたたいて、こちらもチョッピリ浮いた気持ちになりますが、その翌日は、心に穴が開いたような感じがします。まだ教員という仕事に慣れていないからなのでしょうか。
祭りのあと 唄:渥美清https://www.youtube.com/watch?v=S3ltnB_1Rek
他方、ちっとも卒業してくれない学生もいて、それはそれでヤキモキさせられます。人生80年時代なので、30歳くらいまでなら、遊びほうけていても全然かまわないと思います。むしろ、おもいきり道に迷うくらいのほうが良いかもしれません。でも、そういう感覚は、自分と無縁の学生に対するもので、実習やゼミ生で少しは濃密な時間をともにした学生の場合は、気をもまずにいられません。
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2018年3月12日 (月)
映画『否定と肯定』にみる大衆のメディア
ヘイトスピーチが飛び交う日本で、この映画が上映される意義は大きいと思います。ただ、メディアの観点から見ると、沈鬱な気持ちにならざるを得ません。なぜか。ホロコーストを否定する「歴史学者」は、自ら起こした裁判で敗れ、差別者の烙印を押されても、タブロイド紙やトーク番組が彼を声を取り上げ続けているからです。弁護士や学者は法廷で勝つことを優先しますが、大衆メディアにとって重要なのは「部数が稼げる」「視聴率が取れる」ことなのでしょう。ジャーナリストたちにはそういうところも意識して見てほしい作品です。
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2018年3月 9日 (金)
ジャーナリズムとアカデミズム、月刊Journalism連載第4回
2018年3月9日発売の『Journalism』に、連載の4本目「記者講座 ジャーナリズムとアカデミズム」が掲載されました。私は約25年の記者生活を経て大学教員に転職しました。大学院に入学したのはちょうど中間管理職にさしかかった42歳の春。そこで痛感したのは、ジャーナリズムとアカデミズムの住人が、なんだか仲の悪い双子のようだ、ということでした。
「記者講座 道徳的な難問を考える(4) ジャーナリズムとアカデミズム」『Journalism』 (334):2018.3
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2018年2月 9日 (金)
記者が立場を自覚するとき、月刊Journalism連載第3回
2018年2月10日発売の『Journalism』に、連載の3本目「記者講座 記者が立場を自覚するとき」が掲載されています。ストレートニュースを報じる記者は、事実を客観的に把握し、偏向(バイアス)のない第三者の立場から原稿を書くよう訓練されています。しかし、それは「努力目標」というか、一種の「理想状態」です。どんな記者にも、国籍、民族、ジェンダー、出生地・生育地、社会階層、病気や障害の有無などの変更できない属性があります。この回では記者のアイデンティティとポジショナリティをめぐる議論を検討してみました。
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2018年1月30日 (火)
記者が泣くとき怒るとき、月刊Journalism連載第2回
朝日新聞社ジャーナリスト学校が発行する月刊誌『Journalism』の連載2回目は、「記者講座 記者が泣くとき怒るとき」です。2018年1月号に掲載されています。ジャーナリストは強靱な体力と冷徹な意志の持ち主だと思われがちですが、優柔不断で気が小さくて、お悩み上手な人も少なくありません。この回では記者の内的体験という語られることの少なかったテーマについて検討してます。
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4年生ゼミで読むかもしれない本
大学4年生のゼミでは、少し難しいかもしれないけれど、松村圭一郎さんの『うしろめたさの人類学』を読もうかなと思っています。
多くの学生は3年の終わりから就活に振り回されて、ゼミに顔を出さなくなります。ある意味、必死です。彼ら彼女らはこれまで偏差値の格差のなかで嫌な思いを強いられてきました。大学を出たら、そのあとは収入や社会的ステータスという格差のなかに放り込まれます。ゼミどころではなくなる学生もいます。
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2018年1月29日 (月)
記者が〈ルール〉を破るとき、月刊Journalism連載第1回
朝日新聞社ジャーナリスト学校が発行する月刊誌『Journalism』で連載する機会をいただきました。わたしが担当しているのは「記者講座」というコーナーです。これまで何人ものベテラン記者たちが筆を執ってこられた定番のページです。第1回の記事は2017年12月号に掲載されました。タイトルは「記者が〈ルール〉を破るとき」です。
「記者講座 道徳的な難問を考える(1) 記者が〈ルール〉を破るとき」『Journalism』 (331):2017.12 p.84-91
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2018年1月 9日 (火)
卒論審査の新方針(剽窃は一発アウト)
「卒論が完成したので添削をしてください」と頼まれるたびに朱をいれて返してきましたが、同じ学生から3度4度と要求されると、教員の身が持ちません。ゼミ生15人の論文を平均3回添削するということは、45回も目を通してチェックしていくことになります。1人あたり1万2000~1万5000文字の分量なので、眼が死にます。(おまけに、大学院生の修士論文もあり、これが1人あたり3万~5万文字が当たり前ですからね)
朱を入れて返しても「言われた通りに修正したので確認を」というメールがやってきて、十分に直っていないところに再び朱を入れると、またまた「言われた通りに修正したので確認して」とメールがやってくる。表記のルールは「社会学評論スタイルガイド」を見てとお願いしても、きちんとできていないので、また朱を入れると、「こんどこそ、これでいいかどうか確認して」と添削のようなことを求められる……。完全な負のスパイラル。まるで「校正アプリ」にさせられたような気持ちになり、体も心も傷つきます。
そこで、私は次年度から文章の添削をしないことに決めました。研究の方法や深め方についての相談にはナンボでも乗るけれど、日本語表現の添削は原則やらない。
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2018年1月 8日 (月)
院生と読むかもしれない本
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3年生ゼミで読むかもしれない本
ほんとうは勉強したいと思って大学に入学していても、初回ゼミの自己紹介でそんなことを口にする学生は1人もいません。20歳前後の若者といえば、大人社会に対する興味と反発がないまぜになっていることも多く、だいたい素直じゃないです。わたしの助言や忠告に耳を傾けるようになるには、就活を終えたくらいの時期まで待たなければなりません。大学1~2年生からみれば、大学の先生は高校教員みたいに厳しくないので、ふつうはナメてかかっています。
背伸びして反抗的に突っかかってくるならまだいいのですが、学ぶチャンスを逸してしまった学生を見るのは、正直つらく悲しいものです。読書習慣につけさせるのは、ほんらい大学教員の仕事ではないと思っていましたが、最近は強制的にでも読ませないといけないなあと思い始めています。そこで来年度の3年生ゼミでは、一冊の漫画をみんなで丹念に輪読しようかなと思っています。
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2017年12月 8日 (金)
龍谷大学の公開講座もジャーナリズム活動
龍谷大学では、社会人向けの公開講座を開講していて、この秋、私も微力ながら講師を務めました。講座タイトルは「ジャーナリズムの道徳的ジレンマ」です。勁草書房編集部ウェブサイト・けいそうビブリオフィルで連載させてもらったのと同じタイトルと同じで、私が取り組んでいる研究内容そのものです。
社会人向け講座の受講者の多くが60歳以上です。私からすれば人生の先輩といえる方々で、ふだんは20歳前後の学生を相手にしている感覚とは異なり、目から鱗の連続でした。5回の講義をやり終えたいま、引き受けて良かったと思っています。受講してくださった方々と事務方のみなさんには感謝の気持ちを伝えたいです。
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2017年7月 3日 (月)
始動 全国地域紙ネット
地域紙のジャーナリストたちの“よろず相談所”をfacebook上に開設しました。名目上、わたしが世話役を務めていますが、わたし一人ではあまりに非力なので、丹波新聞社の足立智和記者の力を借りています。まだ生まれたばかりの「ひよっこ」で「あまちゃん」のような存在ですが、地域紙のみなさんの参加を募ります。
全国地域紙ネット https://www.facebook.com/zenchishi/
●なぜ地域紙なのか
全国紙や県紙(地方紙)よりも小さな「地域紙」は、全国に約200あります。そうした地域紙は、ながらく「ジャーナリズムの実践者」とは見なされてきませんでした。
理由のひとつに、地域紙の多くが日本新聞協会に加盟していないことが挙げられます。日本新聞協会は敗戦後の占領期、日本の全国紙と県紙が設立した業界団体で、設立過程に占領軍への忖度や隷従があったことが知られています。地域紙で新聞協会に加盟している社は少数です。
現在発行されている地域紙の一部は、戦時下の新聞統合(一県一紙政策)によって強制的に休刊に追い込まれながらも、戦後復刊した気骨ある言論機関です。明治・大正期に創刊した名門紙も少なくありません。他方、地域紙の中には、「地方の時代」やミニコミブームなどを映すかのように1970~1980年代に創刊された新しい新聞もあります。それら新興紙は、言論機関というよりも、暮らしに密着した独自のスタイルを追求してきました。
多様な地域紙は、多様なジャーナリズムの担い手です。規模が大きな新聞社でも、政府の宣伝機関のような記事を載せる例もあります。ジャーナリズム活動の良し悪し、企業規模の大小とは関係ありません。規模の小さな新聞社を、規模の小ささゆえに「ジャーナリズムの実践者」ではないと見なしている人には考えをあらためてほしいと思います。
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2017年6月22日 (木)
新聞の「編集権」はだれのものか 連載「ジャーナリズムの道徳的ジレンマ」第18回
上越タイムス社が地元くびき野NPOサポートセンターに紙面づくりを委ねる協働をはじめたとき、「編集権を放棄した」「新聞の魂を失った」などと陰口がささやかれまいた。しかし、陰口していた人たちは、「編集権」問題を十分に理解していたでしょうか。
日本新聞協会が1948年に公表した「編集権声明」は厳しく批判されてきました。というのも、この時期、新聞経営者たちが「編集権」を必要とした理由に疑義がもたれているからです。当時、米ソの緊張が高まるなかGHQや時の吉田政権が日本の“左傾化”を危惧し始めていました。そして、新聞経営者たちは労働運動を抑え込みたがっていたのです。
〈CASE 18〉新聞の「編集権」はだれのものか http://keisobiblio.com/2017/06/20/hatanaka18/
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2017年5月25日 (木)
犯人の主張を報道すれば犯罪の手助けになるか 連載「ジャーナリズムの道徳的ジレンマ」第17回
2011年11月、千葉市で発生したバスジャック事件では、犯人が「マスコミを呼べ」と要求しましたが、記者はバスに入ってインタビューすることはありませんでした。しかし、1960年代に静岡で発生した旅館立てこもり事件では、犯人の要求通り、報道記者たちが多数旅館を訪れて取材しました。男の主張は、在日朝鮮人に対する不当な差別の告発であり、一部の文化人や知識人は彼の主張のなかには聞くべき内容があると考え、支援に乗り出しました。
マスメディアは不特定多数の人を対象に情報提供しているため、ともすれば多数者の側からものを見ることに慣らされがちです。30年ほど前に、新聞業界に飛び込んだわたしは「権力から距離を置け」「いつも庶民の側から」「声なき声に耳を傾けろ」と先輩から教えられたものです。
〈CASE 17〉犯人の主張を報道すれば犯罪の手助けになるか http://keisobiblio.com/2017/05/23/hatanaka17/
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2017年4月28日 (金)
経営破綻を報じる時宜と大義 連載「ジャーナリズムの道徳的ジレンマ」第16回
わたしが『日経トレンディ』編集部から共同通信社金融証券部に転職した1991年、野村證券の損失補填問題が明るみになり、田淵義久社長が引責辞任しました。駆け出しの経済記者だったわたしには、ここからバブル崩壊にともなう金融市場の大混乱が始まることなど想像もできませんでした。じっさい、90年代中盤以降、中小の金融機関が相次いで経営破綻し、97年には山一証券が自主廃業しました。
破綻報道が難しいのは、「この会社は倒産寸前だ」と書けば、本当に倒産してしまうリスクがあることです。金融機関の経営破綻を報じれば、預金者が店頭に押し寄せる「取り付け騒ぎ」のパニックを招きかねません。
〈CASE 16〉経営破綻を報じる時宜と大義 http://keisobiblio.com/2017/04/25/hatanaka16/
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2017年4月 5日 (水)
「忘れられる権利」か、ネット上での記事公開か 連載「ジャーナリズムの道徳的ジレンマ」第15回
全国の地方紙と共同通信の合同サイト「47NEWS(よんななニュース)」の初代デスクを仰せつかっていたとき、「私の逮捕記事を削除してください」というメールを幾度ももらいました。「刑期を終えた」という人や、「不起訴だった」という人もいましたし、商売や就職活動に差し障っているというものもありました。ひとことで言えば、「忘れられる権利」の主張です。
後発のニュースサイトを立ち上げにあたり、かなりの過去記事を検索対象にしたため、社会的に忘れられていたはずの「元逮捕者」の実名が晒されることになったのです。わたしは、その都度、データ担当者に削除を要請しました。罪悪感も感じていました。
〈CASE 15〉「忘れられる権利」か、ネット上での記事公開か http://keisobiblio.com/2017/04/04/hatanaka15/
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