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2004年7月 9日 (金)

文体

わたしと同居人が勝手に「特ダネ作家」と仰ぐ清水義範さんのエッセイに、文体について書かれた作品があったように思う。あったはずだ。いや、絶対にあった。だって、読んだときに「なるほど、そういうことだったのか!」と小さなショックを受けたんだもん。

文体--この珍妙な概念について、万人を納得させる定義はあるだろうか。プロの作家であっても、困難なはずだ。むろん、文筆業者なら、自分の文体を意識することもあるだろう。だけど、だれもが(わたしやあたなが)納得できるような文体の説明って、どんなものだろう。

文体というコトバはたびたび目にしてきた。みんなふつうに使ってる。酔っぱらいのオッサンが「そもそも、司馬遼太郎の文体ってものは……」なんて講釈していたり、すかしたオバハンが「サガンの魅力は文体なのよ……」などとヌカしていたりする場面に出くわしたことはあった。つまり、説明できなくても、みんな知っているのだ。

この「文体」なるものについて、清水義範さんは、たしか、こんなふうに書いていた。“文体とは、つまり書き手の目線である”。本当に、清水さんがそう書いていたかどうかは別にして(←別にすな!)、少なくともわたしの記憶には、そんな記憶がある(原文を確かめようと本棚を漁ったが、結局見つからなかったので、うろ覚えのままブログに書くことにしました。ごめんなさい)。文体は、読者への目線の高さのようなもの……そうした説明は、わたしにはとても説得力のあった。異論を唱える人がいるだろうけど、「目線」というか「眼差し」というのは、かなり広義だし、反論は難しいのではないだろうか。

なんで、こんなことをグダグダ書いているかというと、大手マスコミの記者のブログが往々にして面白くないからだ。そのつまらなさの理由が、文体にあるような気がしてならない。どいつもこいつつも、みょうにエラソーなのである。「オレが○○の取材でシノギを削っていたとき……」とか、「あのときオレは弾の下をかいくぐって撮った写真がこれだ」とか、「オレは○○をやっつけた」とか……。書いている本人はあまり意識していないかもしれないが、ちょっと高飛車に感じられても仕方がない。

巨大掲示板の「2ちゃんねる」あたりでは、大マスコミの記者がどんなふうに想定されているか。(1)高学歴で(2)高収入で(3)記者クラブで楽ちんな取材をしていて(4)フリー記者が戦場で命を落としている間に、安全な場所で記事を書き(5)権力者と癒着して甘い汁を吸っていて(6)庶民の痛みが分からないで(7)娘や息子を自分の勤め先に入れようとしている………そんな過剰なメディア批判が行われてるネットの世界で、「あんたら無知蒙昧な下等人間に、オレさまが取材のこぼれ話を教えてやろう」みたいなことを金看板を背負って書くのは、ちょっと無謀だよな。(わたしの場合、ブログがなかったころから「負け犬記者の“無視されるのがオチ”」みたいな卑屈な雑文を書いてきたため、すっかり安全圏!)

ところで、清水義範さんがどうして「特ダネ作家」なのかというと、彼の作品を読むたびに「抜かれたー!」とくやしい思いをさせられるからだ。この感覚は、わたしがまだ駆け出し記者だったころにイヤと言うほど味わった感覚と似ている。「バールのようなもの」という作品のタイトルを見た途端、「先に書かれた!」と忸怩たる思いを味わった。

私が見習いたいと考える目線の低い作家は、清水義範さんのほかに、デーブ・バリーさんと土屋賢二さんがいる。この人たちはつくづくすごい。

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「tsuruaki:ITニュース」を運営する湯川鶴章さんの話をきく機会があった。 [続きを読む]

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