映画『華氏911』をどう見るか(修正・再掲載)
遅ればせながら、マイケル・ムーア監督『華氏911』を観た。映画館に行ったのは9月半ばだったけど、草津温泉でのんびりしていたため、今ごろになってこれを書くことになった。ただ、なにをどう書くか迷った。映画そのものよりも、映画についてのコメントが気になって仕方がなかったからだ。ネグろうかと思ったけど、人々のコメントとともに、わたしにとっての華氏911を記録にとどめておきたい。
まず、東浩紀さんのブログ(hirokiazuma.com/blog)から引用する。
『CODE』も『ボーリング・フォー・コロンバイン』も、深刻な社会的問題(前者では情報管理強化の、後者ではセキュリティ強化の問題)を明らかにしたものの、決して安直な解決策は与えてくれない、しかしそれだけに私たちを思考へと誘ってくれたすぐれた作品でしたが、『FREE CULTURE』と『華氏911』では悪者ははっきりしている(前者はRIAAとその仲間たち、後者はブッシュとその仲間たち)。結果として、この両者は、アジテーションとしてはすばらしいのかもしれないが、そのような「わかりやすい物語」を語ってしまう点で、別の危険性も備えている。レッシグにしろムーアにしろライアンにしろ、彼らの言説が単純になってしまうのは、それだけ現実のほうが悪化していることの証左でしょう。それはそうなのですが、彼らと別の国にいる私たちは、少し冷静に距離をとるべきかもしれません。わたし自身、多くの人がすでに見たあとで映画館に足を運んだため、かなりの先入観を持って臨んだといえる。だが、見終わった直後の感想は「一部の人が寄ってたかって貶すほど悪くはないよ。むしろ良い、とても良い作品じゃないか」であった。いったいどこが「良い」のかというと、この作品がマスをちゃんと相手にしていること。わたしなどは単純だから、ドキュメンタリーというとついつい、(1)地を這うような地味な取材をもとに撮影され、(2)演出や創作性を排した地味の極北にあって、(3)知識人は見ているが大衆はその存在にすら気づかない--そんなイメージを抱いている。だけどムーアの『華氏911』が放つメッセージは、きちんと大衆に届いている。これはとても重要なことだ。
(http://www.hirokiazuma.com/archives/000102.html、2004年09月18日)
ただ“知識人”以外の人にも鑑賞できるということは、内容が大幅に単純化されてしまっていることでもある。「ブッシュ=悪」あるいは「ブッシュ=アホでマヌケ」というメッセージばかりが強調される。複雑で多様な世界がみょうに単純化されることに、“知識人”にはとても危険に映るはずだ。東さんはそうしたことを踏まえたうえで、「それだけ現実のほうが悪化していることの証左でしょう」と見て取ったが、たしかにイラク情勢はいっこうに好転しそうにない。
『華氏911』をもっとも早くから絶賛していたのは、映画評論家の町山智浩さんだ。町山コメントはすでに多くに人が読んでいるだろう。なにを今さらと言われるかも知れないが、とても力強い発言なので引用させていただく。
目の前で人が死んでいくのを止めるため、ありとあらゆる手段を尽くしている男を見ながら、したり顔で腕を組んで「映画としては…」なんて「批評」してる場合か?(中略)それをなんとか止めようとしている映画に「うーん、これは映画としてアレですね」なんて偉そうに言ってる場合か?
(町山智浩アメリカ日記、http://d.hatena.ne.jp/TomoMachi/20040625)
こんなことを先に書かれてしまったら、技術論とかドキュメンタリー論ができなくなってしまうだろう。「おまえはブッシュを肯定するか、否定するか」「おまえは反戦か、好戦か」。正直、そんな詰問されているような気がした。好戦ブッシュvs.反戦ムーア。だけど、たしかに人が目の前で次々と殺されている最中に、芸術論をぶってみたところでクソの役に立たないのは間違いないのは間違いない。
実をいうと、映画を観る前、わたしは同居人と一緒にあるシンポジウムに足を運んだ。9月4日(土)に神楽坂で開かれた「That's Japan連続シンポジウム/サブカル「真」論3/世界を活写するための映像表現」。宮台真司さん、映画監督の森達也さん、映画評論家の松田政男さんの鼎談があり、わたしは松田さんの発言にカチンときて席を立った。一言一句を覚えているわけではないが、松田さんは『華氏911』について「あまりに稚拙」「メタファーがない」というような発言をしていた。日本には優れたドキュメンタリー作品がいくつもある。しかし『華氏911』はそのようなレベルに達していない、という批判である。
むろん、松田さんは何のためらいもなく酷評したわけではない。複雑な表情でシブイ表情で語っていたので、切り出したコメントが松田さんの本意をすべてではないだろう。だけど、そんとき松田さんに対し、「なら、手本を示してみろよ」「ムーア以上のものを作ってみろ」と意地悪を言ってやりたくなった。わたしは町山さんに感化されたわけではないし、むしろ距離を感じているのだけど、松田さんよりも町山さんのストレートな物言いに好感が持てる。
ゴダールは映画を観もしないで「ムーアは中途半端な知性だ」とか言ってくさしたそうだが、知性なんてどうでもいいだろ!ゴダールはベトナム戦争のとき、散々騒いだけど結局戦争を止められなかったじゃないか。いや、ベトナム戦争の時、世界中であれだけの芸術家や学者がよってたかってアメリカを撤退させようとしたが、結局できなかったじゃないか。でも、もしかしたら、一人の男が作ったたった一本の映画が大統領の暴挙を止めることができるかもしれないのだ。一本の映画が、何百何千という人の命を救うかもしれないのだ。歴史上、多くの宗教家や哲学家や芸術家やロックミュージシャンが戦争に反対してきたが、実際に止めることに成功した人はどれほどいるのだろうか?でも、もしかしたらそれが初めて実現するかもしれないのだ。その証拠に、IMDbのコメント欄の妨害運動をすさまじさを見よ。これほどまでに恐れられた映画があっただろうか?
(町山智浩アメリカ日記、http://d.hatena.ne.jp/TomoMachi/20040625)
町山さんによると、この映画は「ドキュメンタリー作品」などという枠でくくれない……もっとプラグマティックな反戦運動のひとつといっていいのだろう。いまそこにある危機に対して警鐘を鳴らす人がいて、それがたまたまムーア氏だった。人の作品にヘンな能書きたれる過去の人よりも、いまを闘う貧乏白人のムーア氏を、わたしも応援したくなる。
ただ、手放しで応援するのも、すこし脳天気すぎる。宮台真司さんは自らのウェブログで、こんなことを書いている。
頭を抱えたのは、(1)余りにも手法が稚拙なこと──sexyでないこと──と、(2)ブッシュの悪とアメリカの悪を混同すること──depthがないこと──による。「緊急避難」的に敢えてなしたのなら、米国人ならざる我々は尚更、この作品を手放しで誉めるべきでない。
(MIYADAI.com blog、http://www.miyadai.com/index.php?itemid=145、2004-08-25)
これは、ずいぶん長い記事のごく一部である。わたし自身、よく読み込めていないのだけど、「ブッシュの悪とアメリカの悪を混同する」という指摘はもっともだ。民主党のクリントン前大統領はモニカ・ルインスキさんとのスキャンダルが発覚したころ、突然イラクを空爆したことがあったが、「悪」はブッシュという個人だけではなく、共和党だけでもないだろう。私たちの前にはアメリカという「問題」がある。
だけど、ある作品に「ない」ものを求めるのは、後出しじゃんけんのような気もする。「なんでネオコンに触れないんだ」「おいおい、イスラエルを忘れてるぜ」といった声もたくさん寄せられた。「欠けているもの」を指して、欠陥商品のように貶したり、「あえて隠したことで○○に利した」と非難するのは、少々酷な話だとも思う。
森達也さんはこんなことを言っていた。
「華氏911」について一言だけ。僕がこの作品を批判するいちばん大きな理由は、「悔しい」からです。この映画を観に劇場に足を運んだ人は、ドキュメンタリーの本当の魅力に気づかないままに劇場を後にする。それがまず悔しい。この映画がやったことは本来ならメディアがやるべきこと。ドキュメンタリーの領分じゃない。「ロジャー&ミー」がとても秀逸だっただけに、大好きだったマイケル・ムーアに対しての悔しさもある。どうしちゃったの?という感じ。後はまあ、嫉妬もありますよね。たぶん。うん。それは認めないと・・。でもそれだけじゃないよ。本当に。
(森達也公式サイト、http://www.jdox.com/mori_t/、2004年09月26日にサイトにあった「近況」から)
『華氏911』は、森さんたち日本のドキュメンタリー作家たちが作ってきた良質な作品とは異質のモノで、〈ドキュメンタリーの大衆化〉をすっとばした反戦+反ブッシュの宣伝映像かもしれない。そんなことは分かっているはずなのに、それを敢えて「ドキュメンタリー」と規定し、「悔しい」と嘆いてみせるのは、ちょっと的はずれじゃないか。森さんの発言を読んだときに思った。『放送禁止歌』『スプーン』『A』『A2』がとても秀逸だっただけに、どうしちゃったの? と思った。だけど、「嫉妬もありますよね」という一言で、すべてを許してしまうのだけど。
森さんは人を指弾・糾弾することをしない。オウム真理教の幹部に暴行を加えたうえで不当逮捕した警官(『A』に収録)に対しても、被害者の信者に対しても、反警察の人権活動家に対しても、彼ら/彼女らには家族があって、子供がいたり、近所や親戚とのつきあいがあったり、悩みがあったり……と、わたしたちと変わらない日常を生きているという眼差しを向けているように思える。あらゆる人に同じ眼差し。マイケル・ムーアにも、軍隊に入らざるをえない貧乏白人にも、イラクの被災者にも、ビデオの前で民間人の首を切り落とす覆面の男たちにも、ブッシュ大統領にも、きっと同じ立ち位置から見つめるだろう。それを続けられるのはすごいことだ。
『華氏911』については、じつにさまざまな人が激賞したり批判したりしている。拾い上げているときりがないので、このくらいにするが、最後に自分にとっての『華氏911』はどうなのかを書いておきたい。
結論--『華氏911』はとても良いプロパガンダ映画である。わたし自身の無知をさらけだせば、知らなかった「事実」がいくつもちりばめられていた。お涙ちょうだいだけに流されることもなかったし、ひりつくような階級社会の痛みも伝わった。少ないながらおちょくりもあった。反ブッシュというプロパガンダであるという認識を持って多くの人に見てもらいたい。
ただ、日本の小市民(私を含む)が、プロパガンダ映画を鑑賞する図というは、居心地が悪い。この原因はきっと、「アメリカ的なるもの」や「日本的なるもの」が、わたし自身のなかでじゅうぶん咀嚼されていないためだ。
マイケル・ムーア氏は「反米」ではない。アメリカ人の素朴な感情に訴えかけることができる、いわゆる“アメリカ魂”の持ち主である。かれの強みはブッシュよりも自分のほうがアメリカを愛し、アメリカを信じていることだ。だから彼はブッシュに向かって「アメリカを返せ」「世界を返せ」と言える。
では、アメリカの要請に応えてサマワに自衛隊を派兵した日本に暮らすわたしは、どのように日本を見ているのかといえば、なんとも心許ない。わたしは精神を空っぽにして、マスメディアを流れる文字や映像を漂っているにすぎない。イラクで人質になった三人に対する自己責任論が高まったときに、「おい○○、日本を返せ!」と叫ぶこともできなかったし、森さんが『A』で描いた1995年以降の“反オウム集団ヒステリー”の真っ最中にも、「日本を返せ!」と言えなかったのだから。
マイケル・ムーア公式サイト
http://www.michaelmoore.com/
http://www.michaelmoorejapan.com/(日本版)
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