ライターとジャーナリストの距離
サイエンスライターの育成を支援しようという国の計画が、ちょっとした話題になった。文科省の科学技術・学術審議会の部会が骨子案にまとめたという記事が2004年10月20日に報じられ、その後、さまざまな反応がウェブログや掲示板、ウェブ日記などで見られた(参考)。対象が「サイエンスライター」と限定されるが、足元の業界を考えるうえで興味深い話題である。
「サイエンスライター」という言葉からわたしが最初に連想したのは、スティーブン・ジェイ・グールドやカール・セーガン(ともに故人)、リチャード・ドーキンスといった人たちだ。科学者としての知識や経験を生かして、事象や現象を解説をしたり、啓発活動をしたり、世論を巻き込んで論争したり、必要があれば警鐘を鳴らしたり--そんな役割をする知識人。それがサイエンスライターだよな、とわたしは思っていた。だけど、必ずしもそうではなかった。
日本には「サイエンスライター」「科学ライター」という“ライター系”の人がいるかと思えば、「科学ジャーナリスト」「サイエンス・ジャーナリスト」という“ジャーナリスト系”の人たちもいる。文章がとびきりうまい科学者もいれば、科学者顔負けの知識をもつ物書きもいる。そのほか「新聞社の科学部記者」「科学雑誌の編集者」という人たちもいて、そういう人がサイエンスライターなどと呼ばれる機会もあったりする。科学者やその業界に向けて情報発信する人もいれば、一般ピープルに向けてやさしく書く人もいる。もっといえば、科学を否定する反科学みたいな運動をする人が科学評論家みたいな名刺を持っていたりすることもある。いろんな立場があるわけだが、わたしが関心を持っているのが、最初に書いた“ライター系”と“ジャーナリスト系”の距離である。
この二者がどう違うのかというと、“ジャーナリスト系”の多くは、ジャーナリズム活動をしているという自覚があり、それを周囲にきちんと表明している人たちだということだ。たとえ対象が科学分野だといっても、取材源を秘匿するためには逮捕も辞さないと心に誓っていたり、ペンが剣より強くある(The pen is mightier than the sword.)と思う…… そんなジャーナリズム活動に身を投じているという人たちだ。
もう一方の“ライター系”を自認する人は、「ジャーナリスト」たちとはちょっとスタンスや立場が違う。彼ら/彼女らがジャーナリズム活動をしていないかというと、必ずしもそうではない。でもあえて〈表現の自由〉とか〈民主主義〉とかを声高にさけぶ必要がない人が多いような気がする。あるいは、そういうことを口にすることに恥じらいを覚える人とかも、ライター系に入るような……。
もう一つ言えるのは、この国で「ジャーナリスト」という言葉が妙な捉えられ方をしていることだ。「あんなニセモノが『ジャーナリスト』を名乗っとるのなら、ワシは『一介のライター』で構わんよ」「あんなエセ・ジャーナリストと一緒にされたくないからフリー記者でいいんです」…そんなセリフをいうフリーライターはけっこういる。ビール会社の宣伝に「国際ジャーナリスト」が登場したり、原発が必要だと思うな、と政府公報で訴えた「ジャーナリスト」がいたりしたことも微妙に影響している。いずれにしても、わたしたちの足元にあるニッポンの業界では、なーんとなーく「ライター」よりも「ジャーナリスト」のほうがエライという妙な風潮があることも事実なのだ。
そこで、国がサイエンスライターを育てる、などというと、それぞれの立場の人が想定する「サイエンスライター」というものが、てんでバラバラになる。とくに、社会正義とか民主主義といったものを背負うジャーナリストたちは、国がライターを育てるという発想には耐え難いようだ。なにもジャーナリストを国が教育しようと言っているのではないのだから、目くじらをたてることもなかろうて、などと思うのだけど…。
いずれにしても日本では、ジャーナリストとライターの間にちょっとした溝がある。また、伝統的メディアで働く人と、そうでない人との間にも確執がある。また、学者・専門家と取材者との間にも見えない壁がありそうだ。そういう人たちがコミュニケーションの重要性を説いていたりするのは、ちょっと滑稽かも、と思うきょうこのごろ。
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コメント
ペンが険よりも強くあるべしと思う…… そんなジャーナリズム活動に身を投じているという人たちだ。
あつ 剣の誤植
日本語所以の誤植。
The pen is mightier than the sword.
なら 誤植 在りエナイ
投稿: idoku Kunie | 2004年11月23日 (火) 16時52分
全くの偶然にこの記事にたどり着いてしまいました。。。
自分が簡単に「ジャーナリスト」嫌い、というときの、
ジャーナリストとは「あんなニセモノが『ジャーナリスト』を名乗っとるのなら、ワシは『一介のライター』で構わんよ」こうゆうことなのだと思います。
投稿: にゃん | 2005年5月21日 (土) 15時53分
>にゃんさん:すくなからぬ人がジャーナリストたちに対して、エラそげで尊大なヤツらという印象をもつのは何故でしょうね。
わたしは、ジャーナリストが必要に応じて高みに立つことを認めても構わないと思っています。ジャーナリストの対峙する相手が、よりいっそうエラそげで尊大なケースも少なからずありますし、ときに社会を俯瞰するような眼差しが求められるからです。
でも、権力者たちと丁々発止やりあったり、批判したりしているうちに、ジャーナリストたちが一段高いところに立つことが常態化しているとすれば、それは問題です。国民の指導者でもなんでもないジャーナリストが、大衆を指導する立ち場に立つものと思いこんでいたり、高みに立つための“特権”を自明とものと受け止めているのだとすれば批判されるべきです。
少し話しがそれますが、「ジャーナリスト」という語の、コンスタティブ(事実確認的)な次元での意味と、パフォーマティブ(行為遂行的)な次元での意味は違っているというのが、最近のマイブームです。これが混同して語れるから、ややこしくなるような気がしています。後者の次元で考えると、ジャーナリストには規範的な役割が課せられているのではないでしょうか。政治の番犬とか、社会の木鐸とか・・・ ジャーナリストの側がそうした高邁な使命を口にするからこそ、ジャーナリストたちは“特権”の利用を許された。つまり、権力を監視し批判するために“特権”を与えられている→そんな特権を利用するのだから自らに厳しくあるべき→清く正しくあるべきジャーナリストにあるまじき輩が多い→ジャーナリストの横暴・暴走を規制するには公権力の発動もやむなし・・・・・・ 世論がこんな流れになっているのだとすれば、困ったものです。
投稿: 畑仲哲雄 | 2005年5月21日 (土) 17時43分