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2005年1月 4日 (火)

編集権と内部的自由の備忘録

「編集権」という言葉から、どういうことが連想されるだろうか。私がお仕えした新聞社や雑誌社の上司・同僚100人に聞くと、半数以上はこう答えただろう。「広告や営業や技術のヤツらにガタガタ言わせないための編集局の特権だ」。ではもうひとつ。「内部的自由」はどうだろう。「社外では言いたいことも言えずにいるが、一歩社内に入ると急に威張りちらして遠慮なく後輩や部下に当たり散らせる自由」と考える人もいるのではないだろうか。・・・・こわ。

エラそうなことは言えない。わたしだって長らく一知半解だった。昨年「へなちょこ講師」をした後で、指導教官から貴重な資料をいくつかお借りした。それらを年末年始にざっと目を通したため、すこし経験値がアップした。わたしだけが賢くなるのは申しわけないので、ここで公開の備忘録をつけておく。

■編集権
新聞編集のすべてについての最終的な決定権を意味する用語。ベタ記事の行数や用字・用語から編集基本方針や人事まで幅広く考えられている。小学館スーパーニッポニカは「新聞の編集方針を定め、それを実行して、報道の真実、評論の公正ならびに公表方法の適正を維持するなど新聞編集に必要ないっさいの管理を行う権能」と説明している。これを考えるときもっとも重要なのは、編集権がいったいだれ/どこに帰属しているか、ということだ。

新聞は、前線記者が取材執筆してデスクが編集校閲し、整理部が見出しをつけて紙面に割り付けをする。こうした作業はたいてい「現場」の部長以下が仕切っている。編集局長といえども、すべての記事を事前にじっくり読んでいるわけではない(そんなことは物理的に無理だし、非効率)。だから編集権は「現場」が握っているような気持ちになる。しかし、記者や編集者には編集権の「ヘの字」も持ちあわせていない。

第二次大戦直後の日本では、新聞業界でも経営者や編集幹部の戦争責任を追及する動きが盛んだった。そうした運動の担い手は、新聞社の「現場」の労働者たちで組織する労働組合である。なかでも有名なのが読売新聞社のケースで、平凡社世界大百科辞典には「敗戦直後の1945年10月、読売新聞社の従業員は正力松太郎社長以下幹部の戦争責任を追及し、社内機構の民主化、待遇改善など5項目の要求を掲げて新聞の編集・製作・発送を自主管理する生産管理闘争に立ち上がった」と記されている。「読売争議」と呼ばれるこの民主化闘争で、現場の労働者は編集と資本を分離させるという画期的な成果を勝ち取った(第一次争議)。

しかし、GHQ(連合国最高司令部)はこうした新聞社の民主化の高まりに危惧し、1945年9月19日に10項目からなる覚書(いわゆるプレスコード)を発表する。そして読売のケースがプレスコードに違反するという疑いがかけられ労働側の惨敗という結果を迎える(第二次争議)。経営側が編集権の奪い合いに勝利したことをもっとも象徴的にあらわしているのが、GHQのバックアップによって日本新聞協会が1948年に公表した「編集権に関する声明」だ。

日本新聞協会の編集権声明(1948年3月16日)

 新聞の自由は憲法により保障された権利であり、法律により禁じられている場合を除き一切の問題に関し公正な評論、事実に即する報道を行う自由である。
 この自由はあらゆる自由権の基礎であり民主社会の維持発展に欠くことが出来ぬものである。またこの自由が確保されて初めて責任ある新聞が出来るものであるから、これを確立維持することは新聞人に課せられた重大な責任である。編集権はこうした責任を遂行する必要上何人によっても認められるべき特殊な権能である。
(1)編集権の内容
 編集権とは新聞の編集方針を決定施行し報道の真実、評論の公正並びに公表方法の適正を維持するなど新聞編集に必要な一切の管理を行う権能である。編集方針とは基本的な編集綱領の外に随時発生するニュースの取扱いに関する個別的具体的方針を含む。報道の真実、評論の公正、公表方法の適正の基準は日本新聞協会の定めた新聞倫理綱領による。
(2)編集権の行使者
 編集内容に対する最終的責任は経営、編集管理者に帰せられるものであるから、編集権を行使するものは経営管理者およびその委託を受けた編集管理者に限られる。新聞企業が法人組織の場合には取締役会、理事会などが経営管理者として編集権行使の主体となる。
(3)編集権の確保
 新聞の経営、編集管理者は常時編集権確保に必要な手段を講ずると共に個人たると、団体たると、外部たると、内部たるとを問わずあらゆるものに対し編集権を守る義務がある。外部からの侵害に対してはあくまでこれを拒否する。また内部においても故意に報道、評論の真実公正および公表方法の適正を害しあるいは定められた編集方針に従わぬものは何人といえども編集権を侵害したものとしてこれを排除する。編集内容を理由として印刷、配布を妨害する行為は編集権の侵害である。

東京大学大学院情報学環の花田達朗教授は、この声明を廃止することが必要だと主張している[花田1999:176]。なるほど読めば読むほど問題がある。編集権は「経営管理者およびその委託を受けた編集管理者」に限られているということは、極論すれば個々の記者や編集者は将棋のコマにすぎず、自由な言論活動をすることは期待されていない(というか禁じられているようなもの)ということになる。もう1つ留意すべきは、経営者が編集権を守るために対外的に闘うだけではなく、内部に対しても闘うことが明記されていることだ。「編集権を侵害したものとして排除する」という表現は、編集権のなかに人事権も含まれており、個々の記者を「雇うも追い出すも自由勝手」と解釈できる。(たとえばドイツでは、かつてナチス体制の援助のもとに経営者を排除してナチス体制に個々の記者や編集者を直接従属させようとしたことがあるそうだが、わたしは詳しく知らない。だれか教えてちょ)

日本新聞業界では現在、編集権をめぐって差し迫った争いが華々しく展開されているわけではない。労働運動の主たるテーマにもなっていない。日々の編集業務のほとんどが「現場」に委ねられているのが実情だし、編集権という言葉も間違って理解され、使われているくらいである。しかし、経営者あるいは経営者の息のかかった編集幹部はいつでも「伝家の宝刀」を抜ける状態にある。そのことを「現場」は忘れてはならない。
(ついでながら書いておくと、新聞社によっては署名記事を掲載するケースが増えているが、個々の記事の著作権は記者には帰属していない。経営者あるいは法人そのものに帰属しているのだ)

■内部的自由
新聞社経営者の経営管理権に対抗して、記者や編集者による表現活動の自主性を図ろうとする「自由」を指す用語。新聞は国家権力などからの介入に抗してプレスの自由を確立する必要がある。それを「外部的自由」とすれば、社内で編集権をもつ経営者に対する個々のジャーナリストの自由が「内部的自由」である。この内部的自由を確立しようとする運動が「編集綱領運動」である。新聞協会の編集権声明は、内部的自由など認めんゾ、と主張する拠りどころとなりかねない。

編集綱領運動は1960年代後半から1970年代初頭の西ドイツの放送業界で盛り上がった。元関西学院大学教授の石川明さんによると、最初、この運動はケルン市にある西部ドイツ放送協会で起こり、きわめて短期間のうちに西ドイツ全地域の放送局に波及した[石川1975:68]。運動の狙いは、「記者の良心条項」や「情報公開の原則」などを含む編集綱領を作り、職能的団結を基礎として企業内での編集者の表現の自由を制度的に保障しようとするものだ。企業によっては微妙に違うが、石川さんは編集綱領で要求されたものを以下の5つに大別する。(カッコ内は畑仲のメモ)

1.代表権(編集者総会や編集者委員会がすべてのスタッフを代表して経営者と交渉する権利)
2.聴聞および情報収集の権利(番組関連の人事や予算などについて、事前に編集者の意見聴取をしてもらう権利)
3.理由開示請求権(番組が中止・制限・改変された場合に編集者が説明を求める権利)
4.公開権(経営者との議論で平行線になった場合、その内容を市民に公表できる権利)
5.拒否権(編集者の意向に逆らって人事を決定させない権利)
(「編集綱領運動と内部的放送の自由--西ドイツの場合」『放送学研究』24号、pp.72-73)

これは放送の場合だが、新聞各社でも同種の議論が積み重ねられ、多くの社で編集綱領を持っている。

日本では、毎日新聞社が経営危機を乗り越えた際に「開かれた新聞」キャンペーンの一環として「編集綱領」を設けた。また、内部的自由や編集権を考えるうえで重要と思われるのは「山陽新聞事件」だろう。この事件で岡山地裁は新聞社側に対して「企業が公共的性格をもつ場合にはその営業方針は直接・間接に国民生活に影響を与えるものであり、その企業内事情を暴露することは公益に関する行為として、それが真実に基づくかぎり企業はこれを受忍すべきである」として会社を批判したビラをまいた労組員の解雇を無効とした。(判決文を持ってる人、ネットに公開してちょ)

では、日本のマスコミ業界で編集権を見直して、内部的自由を確立するには、どうすればいいか。山口大学経済学部の立山紘毅教授は、『現代メディアと法』のなかで、以下のことが必要だと説く。

(1)組織内ジャーナリストにふさわしい良心の独立の宣言(編集綱領、良心条項)
(2)それを支える自発的な組織の結成を法的に保障(組織的要素)
(3)人事・紛争手続き(手続的要素)
(4)市民に訴える権利(公開権)
(「編集権とジャーナリストの権利」『現代メディアと法』三省堂、p.71より抜粋)


立山教授の見解は、石川さんがまとめたドイツにおける5項目とほぼ重なる。「編集者総会」なる組織を内部に作り、ジャーナリスト個々人の「良心」を重視し、民主的で公明正大な手続きを実施させ、紛争が決着しない場合は読者・視聴者のみなさまに下駄を預ける。たしかに正論である。そうあるべきだ。立山教授も、石川さんも花田教授も、ようするにマスコミ企業は民主化すべしと発言されているわけだ。

しかし、特定新聞社の編集者総会が「公表権」を行使して「これはゆゆしき問題です」と広く社会に訴えたとして、いったいどうなるだろう。「市民」たちの間には、マスコミがもはや市民社会から遊離しているという合意がある。特定新聞社の「編集者総会」から「どーにかしてよ」と下駄を預けられても、それは市民にとって自らの問題ではないだろう。むしろそれは「特権階級にいるヤツらの泣き言」と受け止められかねない。

韓国では3万人を超える市民記者を擁するオーマイニュースなど、市民の側に軸足をおいたインターネット新聞が影響力を強めている。パブリック・ジャーナリズムとオンライン・ジャーナリズムのよい部分を取り入れ、かつビジネスモデルとしても成功を収めた画期的な試みである。オーマイニュースに匹敵するような盛り上がりはまだ日本には存在しない。それは韓国のジャーナリズム活動が日本より進んでいることをあらわしているのではなく、「言論権力」と呼ばれる朝中東が市民から遊離しすぎたため、人々が「オーマイニュース」を召還せざるをえなかったといったほうがよさそうだ。

日本では伴武澄氏の「萬晩報」がオーマイニュースよりもはやく市民記者の参加を呼びかけ、JANJANやライブドアがそれに続く形でパブリック・ジャーナリズムを展開している(ライブドアは4月から?)。その一方、日本でも昨年ぐらいからサラリーマン記者がウェブログで盛んに発言するようになってきた。湯川鶴章さんの「ネットは新聞は殺すのかblog」のほか、匿名で展開している「ガ島通信」さん、「ジャーナリズム考現学」さんあたりが注目を集めている。一連の動きは、従来から考えられてきた「編集権」や「内部的自由」の問題とじつは深く関係している。ただ、こうした現在のネットの動向をリアルタイムで評価分析するのは困難だし、危険なので、これはまたの機会に。

■参考文献(50音順)
・石川明(1975)「編集綱領運動と内部的放送の自由--西ドイツの場合」『放送学研究』24号
・石川明(1998)「番組制作者の自由と責任」『関西学院大学社会学部紀要』第80号
・石川明(2000)「市民社会とメディア企業」原寿雄(編)『市民社会とメディア』リベルタ出版
・石川明(2000)「ドイツにおける“内部的プレスの自由”」『関西学院大学社会学部紀要』第87号
・石川明(2001)「ドイツにおける“公共放送像”」『関西学院大学社会学部紀要』第89号
・立山紘毅(1998)「編集権とジャーナリストの権利」田島泰彦ほか(編)『現代メディアと法』三省堂
・花田達朗(1996)「放送制度の社会学的分析」『公共圏という名の社会空間』木鐸社
・花田達朗(1999)「メディア制度の閉塞と倫理の召還」『メディアの公共圏とポリティクス』東京大学出版会
・浜田純一(1990)「編集の自由とプレスの内部的自由」『メディアの法理』日本評論社
・玄武岩(2003)「インターネットと韓国大統領選挙」『地域研究論集』Vol.5 No.2 pp.195-211
・松尾博文(1981)「『編集権』の歴史的性格」、稲葉三千男『メディア・権力・市民』青木書店


■参考資料
「日本新聞協会の編集権声明」(1948年03月16日)
以下、リンク未完成
・NHKと編集権=1971
・「山陽新聞事件」岡山地裁判決(19631210)
・毎日新聞社編集綱領(197712)
・新聞労連の『新聞記者の良心宣言』(199702)
・『民放連 報道指針』(199706)

■参考ブログ
Shu's blog 雌伏編
kitanoのアレ
雨の日の遊園地
山崎宏之のウェブログ
娘通信♪

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コメント

 「編集権」に関する考察ご苦労様です。ネット環境が急激に広がる中で、電子メディア独自の編集権を紙の編集権とは別個に考える傾向が一部に存在するようです。
 そうした「編集権」のとらえ方は、便宜的にすぎて、社会的に混乱を招く、あるいはうまく受け止められない可能性があります。さらには、最終的には経営権に帰属する「編集権」の原理からして、矛盾も生じかねないように思います。
 そのため弊社では、編集局長の権限の中に「電子メディア」を置くことを早くから決めています。現場の混乱を最小限に食い止めないと、一歩も前に進めないので、あたかも自明の理であるかのように自然に(強引に?)処理してしまっています。そのことによる影響等には、淡々と対応したいと思っています。
 新聞社と「電子メディア」‥。実に厄介であります。

投稿: schmidt | 2005年1月 5日 (水) 09時17分

あけました。本年もごひいきのほどを御願い申し上げます。とともに、畑仲さまによい年であることをお祈り申し上げます。
 編集権ですね。いち選手が と言い放った渡辺オーナーが思い浮かびます。
編集権その経緯を見るときにGHQの存在、およびプレスの自由委員会とかいうこととも関係しているようにもおもえます。
他、声明というものには拘束力があるのでしょうか。自主的にしたがっている大勢というようなイメージがそこにはあるのですが・・・。

投稿: JOHNY | 2005年1月 5日 (水) 14時42分

あの、花田先生の名前、ぜんぶまちがってます。最後の字ね「朗」です、、、、いちおう。

投稿: hayashik | 2005年2月 9日 (水) 01時43分

hayashik先生:わー恥ずかしー! さっそく花田先生の名前を「達郎」から「達朗」に修正しました。ご指摘感謝します!

投稿: 畑仲哲雄 | 2005年2月 9日 (水) 02時17分

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