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2005年3月10日 (木)

「記者ブログ」って何?

新聞記者がアフター5に個人サイト(ブログを含む)を運営することの意味って何だろう。ガ島通信さんの退社をめぐって、ここ数日あれこれ考えているのだが、どうも考えがまとまらない。

多くの記者は、日々、表現活動をしている。ふつうの人がアクセスしにくい場所に足を踏み入れ、会にくい人に会う。場合によっては不眠不休で原稿を書かなければならず、極度の緊張にさらされたることも少なくない。資本や権力からの介入があれば敢然と拒否する。ニュースソースを守るためなら、甘んじて有罪判決を受ける。彼らが書く記事は数多くの人に読まれ、社会に少なからぬ影響を及ぼす。

むろん、すべての記者が立派な活動をしているわけではない。巷間批判されるように、記者クラブで昼寝ばかりしている記者もいるし、メディアスクラムと言われるような場所で妙に頑張って自分を見失う記者もいるだろう。会社の威光を悪用したり、エリート意識を振りかざしたりして人を見下すような愚かな記者もいるだろう。そうした記者たちを糾弾するのがこのエントリーと目的ではないので、このくらいにする。わたしが知りたいのは、一般の人よりもはるかに社会的影響力を行使する記者が、原稿料も出ないのに、どうしてブログをするのか、である。

1999年。まだブログなんて便利なツールがなかったころのこと。武田徹さんの訪問を受け、オンライン・ジャーナリズムについてまじめに話しあう機会があった。なぜ個人サイトを立ち上げたのか。それは仕事とどう関係するのか。個人サイトを作って何が変わったか…… その話し合いに先立って武田さんからもらったメールに「マスメディアで働くもののルサンチマン」という言葉が書かれてあった。無署名ゆえのルサンチマンが、個人サイトの動機ではないか? それが武田さんの仮説だったように記憶している。

当時、「その仮説は違うよ」と答えたはずだ。「オレが、オレが」という肥大化する自己を押さえきれずに(ありていに言えば目立ちたいというスケベ根性のために)サイトを開設したわけではない。人に知られて得することなどほとんどない。恥ずかしがりだし、人前でしゃべると声がうわずるような小心者だ。なのに実名サイトを作った背景には、ルサンチマンとは別の何かがあったからだ。そんなわたしと、ここ数年で急増している「記者ブログ」との間に、どのような違いがあるのだろう。

このブログは、ジャーナリズムと社会学を研究する大学院生の身辺雑記である。政治的な主張・主張は書かない。正義や公正といったことを声高に叫ぶこともない。不正や欺瞞を追及しない。学問の面白さを綴りたいと思っている。だからガ島通信さんや、ネットは新聞を殺すのかblogさん、ジャーナリズム考現学さん、札幌から ニュースの現場で考えることさんたちとは立ち位置が違う。そして、その立ち位置に自らのズルさを感じてしまう、今日このごろです。

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コメント

 「記者ブログ」という表現自体、だれが使いはじめたのかよく分かりません。前提があいまいなままに語られているような気がします。ブログの運営者が「記者」であることに意味があるケースを腑分けして語る必要があるように思います。

 新聞社やテレビ、通信社などに席を置いている人が個人の立場で、ジャーナリズムについて、匿名で語ることにどのような評価を下せばいいのか。実名ならどうなのか。いわゆる取材記者でない場合はどうなんでしょう。
 新聞社以外の企業に身を置く人の場合と異なるのかどうかなど、前提を整理しながら議論しないと分かりにくいような気がするんですがどうでしょうか。

投稿: schmidt | 2005年3月10日 (木) 10時44分

 残念ですね。タイガースではありませんが、発展的解消でしょうか。これからは実名でバリバリやって頂きましょう。一葉

投稿: 一葉 | 2005年3月10日 (木) 17時22分

schmidtさん:
 「記者ブログ」というネーミングは、考えれば考えるほど滑稽です。ご指摘どおり、前提もあいまいでしたし問題意識もぼんやりしていました。新聞社には編集職場もあれば、広告、販売、印刷などといった非編集部門で働いている人も大勢いるわけですよね。配送のトラック運転手や販売店員だって新聞社を支える人材です。そうしたさまざまな部門の人たちがみんなで協力し合いながら新聞でメシを食っているはずなのに、光が当たるのは常に「記者」!
 新聞社で最もエライと思われているのは記者職の人たちですし、当の記者職の人たちも自らをエライと認識しているのだとすれば、新聞社は珍妙なヒエラルキー構造によって成立していると言えるのではないでしょうか。何を今さらと言われるかもしれませんが、近代が生んだプレス(と議会)は、自由や平等、人権を求める運動であったはずなのに、現実は人の上に人を作り、人の下に人を作る、そんな営利集団になってしまったのでしょうか。
 脱線ついでに書いておきますと、アメリカで最近、「記者」だとか「ジャーナリスト」だとかの看板を背負っていないけれども、言論活動をしているブロガーたちに、Fist Amendment rights(合衆国憲法修正第1条)を適用すべきかどうか、司法の場で検討されたようです。決着はついていないようですが、わたしはbloggerも「記者」も法の下では同じ扱いを受けるのが当然ではないかと考えます。「表現の自由」は特定の人たちだけに与えられる特権ではなく、すべての国民が持つべきものですからネ。
http://www.asahi.com/english/svn/TKY200503070212.html

投稿: 畑仲哲雄 | 2005年3月11日 (金) 00時03分

 お恥ずかしながら初コメントをさせてください。
 私も地方紙の営業畑のはしくれの一人として、記者ブログを拝見させていただいてはや4ヶ月。非常におもしろくこの世界での大きな参考指標になります。
 しかし、記者は「なんで名刺に記者と明記されているのか?」ということにはかなりな疑問をいだきます。記者という肩書きはいったいどういう意味なんでしょうか。組織としての異動で記者という肩書きが取れた人間はその時から、ジャーナリストではなくなるのでしょうか。記者の方、はたまた記者だった方、ぜひ教えてくださいませ。

 入社10年を過ぎた営業の平社員の私は、実はこの間まで「営業が一番エライんだ」とまじめに信じ錯覚していました。ばかげていますが最近になってようやく「垣根なくみんなエライはずだ」とスッキリと思えるようになりました。当然のことながらジャーナリスト中心で「新聞社」が形成されている訳ではありませんよね。みなさん口ではそういいますが、腹では「記者が一番だ」と思っているフシがあるような気がします。「見えていないものを率先して見にいく行為」が新聞記者の勤めの大事な一部分だと思います。もっと「一般大衆の世界」に飛び出していって良質な記事を死に物狂いになって書いてもらいたいと切にお願いします。

 私もそろそろ「実名で・・・」との欲求にかられますが、まだまだ勇気がありませんねぇ。どうしてもこむずかしい表現で相手されてしまいますと意気消沈してしまい、くだらない雑文に逃げてしまいます。「実名で表現できる」環境になればもっと「格好の良い文章表現」を修練しはじめるのでしょうかねぇ・・・。

投稿: わかばやしく | 2005年3月11日 (金) 01時11分

わかばやしくさん:
 コメントありがとうございます。どちらかの新聞社で営業をされているとのこと。出会う可能性のすくない人とお話ができるのはとてもうれしく、つくづく良い時代になったなあと感じます。
 タテマエは平等だけど本音では「記者がエライ」という空気は普遍的なものかもしれませんね。「編集権」も「内部的自由」もないリーマン記者が、どうして自らをエライと錯覚してしまうのか・・・・・これはジャーナリズム研究者にとって興味深い対象かもしれません。

投稿: 畑仲哲雄 | 2005年3月11日 (金) 02時42分

 「記者」はなぜエライか?この問題にはなかなか答えられません。ただ、以前から思っていることの一つに日本の企業における人につけられる呼称の中で「記者」はとてもユニークなものです。

 企業に働いている人の名刺を見ると、いわゆる職制-主任、係長、課長、部長などその人との企業の中でのヒエラルキーあるいは配属先の名称で表現するケースが多いようです。(個人的にはむしろデザイナー、エンジニア、エディターといった仕事の内容を表現する呼称にする方が仕事のレベルが高まっていいように思います)

 新聞社の場合も同様なのです。その中で「記者」という呼称だけは、仕事の内容を表現しており、異例です。すみません。なぜエライか?にたどりつけないので次回。

投稿: schmidt | 2005年3月11日 (金) 17時19分

 schmidt さんの、「記者」はなぜエライか? の問いになかなか答えられません。とのコメントに、内心ホッと安心しています。一言では答えられないだけの重要な問いかけの一つだと私も実感しました。「記者の」呼称はとてもユニークなものとの内容もとてもおもしろいですね。

 仕事の内容を社内で表現することが許されるとしたら皆様はなんと刻印しますか?
 私がつけるとしたら、昔はきっぱりと自信を持って「営業」。今ならそうですねぇ「SNSディレクター」とでもいれたいものです。

 3ヶ月おきに変えられるというのも、業務の意識がしっかりと自覚できてよさそうですね。

投稿: わかばやしく | 2005年3月12日 (土) 01時27分

 ごめんなさい質問をひとつ忘れました。

 記者という呼称を名刺にはじめて印字したのはいったい誰なのでしょうかねぇ。その辺に「記者はエライ論」のヒントが隠されているような気がするのですが・・・。

投稿: わかばやしく | 2005年3月12日 (土) 01時32分

 この場を借りて「わかばやしく」さんにレスします。「営業」ではなく「営業を仕事とする人」の呼称である必要があるような気がします。

 「大工」「とび職」「漁師」「詩人」「教師」「小説家」など、日本語には、その人の仕事を表す呼称があるのに「会社」になったとたんにどんどん希薄になってしまったようです。今ではいわゆるカタカナ職業にしか、それが見当たらず、若い人たちの「あこがれ」の対象だったりします。

 半面「サラリーマン」「会社員」とひとくくりにされたわたしたちは時には「それだけにはなりたくない」と侮蔑の対象になったりします。どこかおかしい。その中で新聞社という会社の場合、「記者」はやはり異色です。でも、えらくはない。仮にそう思っている人がいるとしたら、それは単に外の世界を知らない無知であるにすぎません。元ペーパーメディアの「記者」から「外」に放り出され(飛び出し?)、今はネットメディアの「記者」のつもりでいるわたしが断言するのだから間違いはありません。

投稿: schmidt | 2005年3月12日 (土) 09時03分

schmidtさん、わかばやしくさん:
 素朴な疑問が深化していく過程をわくわくしながら読ませていただいています。ブログっていいものですね。
 「記者」という肩書きを名刺にはじめて印字したの張本人がどこにいるのか、その狙いは何であったか、私も興味のあるところです。機会があれば調べてみます。
 ところで、わたしが尊敬するジャーナリズム研究者が、ある論文のなかで以下のような表現をサラリとしています。これが「記者エライ論」を説明するひとつの視点になるのではないかなと思い、引用します。
--------------
 これまでのマスメディアは、政治の番犬、社会の木鐸として、ある意味で社会の一段上に立つことによって政治制度を監視し、社会を見渡す役割を自負してきた。そこにジャーナリズムという意識の活動の場を展開し、自らの公共性を担保する職業倫理を築いてきた。逆に言えば、マスメディアは壇上に立てるからこそ、客観的な報道も可能であるし、表現の自由という特権も行使できる、とする論理を制度の中に内在させている。しかし、そのようなマスメディアの立ち位置は(中略)かえってジャーナリズムの意識を低下させてしまっている、と言えるのではないだろうか。
[林香里(2004)「『オルターナティブ・メディア』は公共的か」『マス・コミュニケーション研究』65号pp.38-39]
--------------
 ここで書かれている「マスメディア」を「記者」と置き換えることは可能です。ありていにいえば、記者たちが公共性の高い仕事をし、立ち振る舞いにも自覚的であれば、少しくらい高いところからモノを言っても許容される余地はある。しかし、単に新聞社に記者職で採用されただけの給与所得者が、オレは社会から一歩高いところに立つことを許されているんだ、と本気で信じているケースもあります。
 「記者」だけ特別扱いをするのはやめて、一律「編集スタッフ」とすれば、記者サンの鼻もいくぶん低くなるのではないでしょうか。「営業スタッフ」「広告スタッフ」「販売スタッフ」「配達スタッフ」「ネット・スタッフ」「技術スタッフ」・・・・言い換えるだけでヒエラルキーが崩れるとは思いませんが、「エライ記者」たちが自分の立ち位置を自覚する機会になるのではないでしょうか?

投稿: 畑仲哲雄 | 2005年3月12日 (土) 11時07分

■参考サイト
・松浦晋也のL/D http://smatsu.air-nifty.com/lbyd/2005/03/post.html

投稿: 畑仲哲雄 | 2005年3月12日 (土) 11時18分

 おもしろいですね、記者はエライか。
でもどこで通用するのでしょうか?業界のみか、もしくは就職活動している学生さんの中ぐらい・・・だとわたしはおもったり。
その評価は
露出度が高い業界のなかで、気骨のある(とおもわれている)人たち由ということででしょうか。
記者と言う名称が、マスメディアの何かを肩代わりさせられている、そんな風にも思います。

投稿: JOHNY | 2005年3月12日 (土) 12時54分

JOHNYさん:おひさしぶりです。記者がエライというのは、少なくとも「マスコミ業界」という井戸の中で通用しているようです。JOHNYさんが指摘するように、露出度が高いこともあって、記者たちは妙に高い下駄を履かされているのかも知れません。だけど、《記者の名刺を持つ人》が必ずしも《ジャーナリズムという意識の活動をしている人》とは限らないのも事実です。私的領域に潜む諸問題を政治化し、公開の場で討議することで公共圏を耕す---ジャーナリズムをそのような活動だと仮定すれば、「記者」の名刺そのものに意味は見いだせないですね。研究者のの世界にも似たような慣行はあるはずですよ。旧帝国大学の教授がエライとは限らない、、、、とか。

投稿: 畑仲哲雄 | 2005年3月12日 (土) 21時43分

 「営業スタッフ」のわかばやしくです(笑)。「編集スタッフ」という言葉もいいですね。これでしっくりするような気がします。どうにか「記者の肩書きを編集スタッフにしよう運動」をしたいなぁと思っちゃいました。

 今日いろんな検索エンジンで『「記者」という肩書きを名刺にはじめて印字した張本人」』を探す旅にでてましたが辿り着けませんでした。残念です。そんなときは「はてな」の人力検索なのでしょうかぁ?
 
 「記者はエライか」論でさらに気になってしまっているのが、じゃぁ「エライ人とはイッタイ誰!?」ということです。皆様は「自分自身を偉いと思いますでしょうか」。
 私はある部分は自信を持って「偉い」と思いますが、ある部分は全く「偉くない」と感じます。とすると「偉い」と決めるのは当然他者からの勲章のようなものなのでしょうか。「偉いと思うこと」=「プライド」に近い気がしますが、どうでしょう。
 
 ※なんだか、思考がごちゃごちゃになってしまい、しつこいコメントになってまいりました。ごめんなさい。ご迷惑であれば他でするようにしまーす・・・。
 

投稿: わかばやしく | 2005年3月13日 (日) 00時04分

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