マスメディアと公開フォーラム
指導教官から読むように勧められた本が面白い。《民主主義にとって/資本主義にとって》とか《市民として/消費者として》のように、議論で混乱しがちなことをキッチリ切り分けて論を進めてくれている。おかげで頭の中が少し整理された(という錯覚を抱いただけかもしれないが)。とくに、マスメディアの存在意義と公開フォーラムについて、あらためて肯定的に考えさせてもらう良い機会となった。こんなことなら、もっと早く読んでおくべきだった。
サンスティーン,キャス(2003)石川幸憲(訳)『インターネットは民主主義の敵か』毎日新聞社 原題:Republic.com
インターネット揺籃期、対抗文化の担い手たちの口によくのぼった言葉がある。たとえば、"Information wants to be free"(情報は自由になりたがっている/自由を求めている)。これは、The Long Now Foundation(ロングナウ協会)という団体の代表者 Stewart Brand (スチュワート・ブランド)が1984年に発した名セリフだ。情報それ自体が特定の人の所有から離れて、自由に(あるいは無料に)なっていくことへの積極的な肯定である。この考え方を徹底していくと、情報それ自体に価値を付けて販売するビジネスは成立しなくなる。極論すれば "Information wants to be free" はマスメディア産業の、そして資本主義全体の敵となりかねない。
しかし、統治に関する情報が特定の人たちだけで所有される社会は、民主主義とほど遠くなる。それゆえ対抗文化の担い手たちは(一部は愛国的な情熱に燃えて?)情報自由論を叫び、インターネットに勇躍乗り出した。曰く、もともと市民たちが自由に扱ってもよいはずの情報を、政府や大企業から取り戻せ。曰く、獲得した情報を、そして自分たちで生み出した情報をみんなで共有しよう―――そんな発想が80年代半ば以降、アメリカから日本にも伝わってきた。(わたし自身、リチャード・ストールマンのFSFやマイケル・ハートのグーテンベルク計画(ヘッダの山形訳)などに大いに触発されていた)
だが90年代に入り、インターネットは次なるステージに移行する。ネット利用者の爆発的な拡大、通信料金の低価格化、猛烈なスピード進む商業化、世俗化・・・・。そしてamazon や e-bay などの商業サイトの隆盛により、現在のネット環境の基礎が形成されたといってもよい。ネットを通じていろんなことが可能になった。市民・消費者の双方に好ましい世界が到来したのかもしれない。なぜなら、80年代のネットは、コンピューターやネットワークに関する知識を一定程度持っていなければならず、パソコンに詳しくない人たちは最初から排除されていたからだ。デジタルデバイドという問題を残しつつも、80年代のような不平等は解消の方向へ向かったと言っていいだろう。
でも、人が増えれば当然ながら問題も増える。ネットには児童ポルノのほか、爆弾の製造法まで公表されるようになった。米国では中絶手術をした医師とその家族の詳細なプロフィールが「WANTED」として晒され、数人の医師が本当に殺された。市民・消費者の双方にとっておぞましい世界が到来しているのだろうか。マイナス面を強調して、インターネットを規制しろと叫ぶ人もいる。国家がそれを放置していられない理由もわかる。むろん、ネットに規制は要らないと反論する人もいる。サイバー・リバタリアンたちだ。
90年代に入って生まれたもう一つ有名なセリフ(というか文章)がある。「サイバースペース独立宣言」(1996年)である。これは、ネット上の「わいせつ」情報を取り締まる Communications Decency Act:CDA(通称・通信品位法)が米議会で議論されていることを危惧した電子フロンティア財団共同設立者John Perry Barlow (ジョン・ペリー・バーロウ)が書いたものだという。以下が書き出し部分を以下に引用する。
Governments of the Industrial World, you weary giants of flesh and steel, I come from Cyberspace, the new home of Mind. On behalf of the future, I ask you of the past to leave us alone. You are not welcome among us. You have no sovereignty where we gather.
(Barlow, John Perry(1996)"A Declaration of the Independence of Cyberspace" , Electronic Frontier Foundation Web Site http://homes.eff.org/~barlow/Declaration-Final.html)
かつて自由でのびのびできたサイバースペースに、国家がいろんな規制をもたらそうとする。それに対して敢然と立ち向かった象徴であった。たしかに、自由は民主主義にとって大切な要素のひとつである。ことに表現の自由を中心とする精神的自由は、経済的自由より優位である(二重基準論)とされる。だからこそ、国家の介入に脊髄反射でファースト・アメンドメントを持ち出す人も少なくない。だがしかし、明らかに他者の生命や財産に甚大な影響を与えるような言説は許されるはずがない。80年代、どこか威勢のいい"過激"なセリフを声高に語っていた人たちは(というか、彼ら/彼女らの同調者は)沈黙の螺旋過程に入ったような気さえする。
21世紀。ネットは無秩序なまま広がり続け、選択肢も無数に増えた。選択肢が多ければ多いほど人は自由でいられるかのような意見もある。だけど、多すぎる選択肢のなかで、わたしたちは溺れてしまいかねない。そんなネットが広大さは、さまざまなフィリタリング技術を要請してきた。もう、わたしたちはフィルタリング技術なしにネットと関われなくなってしまっている。
自分でおこなうフィルタリングもあるし、他人(企業)がおこなうフィルタリングもある。前者の好例は検索エンジンだ。人々はじぶんのニーズに応じた情報をネットから抽出する。音楽に関心のある人は音楽サイトばかりを見に行くようになる。おかげでその人の趣味の時間は充実するかもしれない。ただ、これまでなら目に付いたような政治や経済、海外の飢餓や戦争といった情報に触れる機会が減り、結果的に"視野の狭い人"になりかねない。ロシア・東欧地域の事象に興味のある人はネットから専門的な情報を得ようと時間と労力をかけようとする。彼は街で一番のロシア通かも知れないが、自分の住む街に存在するいくつもの問題について全くの無知となる可能性もある。
企業がおこなうフィルタリングとしては、通販業者は客の購入履歴から巧みなリコメンドをする例がある。amazonはまさに消費者の嗜好を予測し、さらなる消費を誘導する。そうしたネット通販だけしか利用しなくなると、現実の店舗でなら偶然に目に触れ、耳に聞こえてくるような商品と出会う機会はなくなってしまう。
一人ひとりが自分の世界で幸せを追求していくのはけっこうなことだ。同好の者同士がさかんにネット上で交流し排他的なエンクレープ(飛び地)を形成することも良かろう。だけどそれは社会全体をより善き方向に導くのか? 民主主義にとって本当に良いことなのか? 必ずしもそうではないのはないか?
シカゴ大学教授で憲法学者のCass Sunstein(キャス・サンスティーン)の問いは根元的だ。彼が危惧するのはネットにおける集団分極化(group polarization)とそれに伴って起こる(?)サイバーカスケード。これらは、ised@glocomのキーワード・ページでも言及されているが、ドイツの社会心理学者で世論調査の権威エリザベト・ノエル=ノイマンが唱えた「沈黙の螺旋理論」とどこか似ている(2004年夏学期の社会情報学基礎ゼミで、Mさんと一緒に発表したため、すぐにピンときた)。サンスティーンは、インターネットの民主主義を救うための糸口をいくつか提示する。たとえば、思いがけなく見知らぬ人の意見を偶然聞く(読む)公開フォーラム、そして、マスメディアが提供する社会的な共通体験、共通の準拠枠の回復。つまり、価値観や考え方の違う人との出会いや、対話・議論を促すことだ。サイバースペースには可能性があるし、マスメディアだって出番は残されているはずだ。
(関係ないけど、この本の邦題は全然ダメ。売りにくい本の典型例。"Republic.com"というカッコイイ原題が泣いている)
■関連サイト
▽本・書評
・サンスティーン,キャス(2003)石川幸憲(訳)『インターネットは民主主義の敵か』毎日新聞社(bk1|amazon)
・Μαπλε MEmo: インターネットは民主主義の敵か http://maplewar.publistella.net/archives/2004/11/post_10.html
Miyajeeの読書掲示板: インターネットは民主主義の敵か http://miyajee.e-city.tv/internetwaminsyusyuginotekika.html
・H_Ogura(2005)「国民会議とサイバーカスケード」BENLI blog http://benli.cocolog-nifty.com/benli/2005/01/post_4.html
・ノエル=ノイマン,エリザベト(1997)『沈黙の螺旋理論――世論形成過程の社会心理学』改訂版、池田謙一 訳、ブレーン出版(amazon)
▽スチュアート・ブランド
・The Long Now Foundation http://www.longnow.org/
・平 和博「ロング・ナウ協会代表、スチュアート・ブランド氏に聞く」サンノゼ発、ネット最前線、asahi.com
(上)http://www.asahi.com/tech/sj/long_n/01.html
(中)http://www.asahi.com/tech/sj/long_n/02.html
(下)http://www.asahi.com/tech/sj/long_n/03.html
▽ジョン・ペリー・バーロウ
・Barlow Home(stead)Page http://homes.eff.org/~barlow/
・Barlow, John Perry (1996) "A Declaration of the Independence of Cyberspace", Electronic Frontier Foundation Web Site http://homes.eff.org/~barlow/Declaration-Final.html
・バーロウ、ジョン・ペリー(1996)鈴木啓介(訳)「サイバースペース独立宣言」、http://www.ezweb.co.jp/~higan/
・バーロウ、ジョン・ペリー(1996)山崎カヲル(訳)「サイバースペース独立宣言」、http://www3.toyama-u.ac.jp/~ogura/another_world/censor/cyb-ind.html
・Takama, Gohsuke(2003)「ジョン・ペリー・バーロウ、インタビュー」、MetaNotes Web Site http://metamemos.typepad.com/gt/2003/08/post_1.html
・福冨忠和(2003)「精神世界に移り住むために」、MYCOM PC WEB - 東京バイツ 第155回 http://pcweb.mycom.co.jp/column/bytes/155/
▽ised@glocom : 情報社会の倫理と設計についての学際的研究 > キーワード
・サイバーリバタリアニズム | サイバーコミュニタリアニズム | カリフォルニアン・イデオロギー | サイバーカスケード | デイリー・ミー
▽過去記事
・世論(1)http://hatanaka.txt-nifty.com/ronda/2004/06/post.html
・世論(2)http://hatanaka.txt-nifty.com/ronda/2004/07/post.html
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コメント
早速、友人のアマゾンアフィリエイトで購入しました。わたしのような実業の世界では、こうした基本書籍からどんどん遠ざかります。その結果、当然のことながら頭もどんどん悪くなります。とりわけ「民主主義」という言葉を見ただけで、この国ではどうせ議論不可能と、あきらめてしまいます。
一応、「民主主義国家」であると言われながら、根本的なところで、その構成員らの立場、発想が多様・混沌としている事例は、歴史的にも珍しいのではないか。突き詰めて議論しないことによる安楽に、ついよりかかりたくなります。いかんことなのでしょうが。
投稿: schmidt | 2005年4月 3日 (日) 12時43分
schmidtさん:いつもながら素早い反応をありがとうございます(アノ本はちょっと堅苦しいですよ)。わたしも大学院に通うようになって読書の傾向や興味関心が変化してきました。1年間の院生生活で感じるのは、ジャーナリズム研究者とジャーナリズム実践者が、互いから何かを学ぶ機会が少ないことです。政治家と政治学者、起業家と経済学者のほうが良い関係を作っていますよね!
投稿: 畑仲哲雄 | 2005年4月 3日 (日) 15時34分
Republic.comを読みました。憲法論から説き起こすネット論に初めて接したせいでしょうか、一気に読み通すことができました。なるほど民主主義とネットの関係はこんな形で位置付けながら考え、論じていくのですね。「思考モデル」を楽しみながら読んだのは久しぶりです。
ウェブを新聞社の実業世界で運用すべく試行錯誤しているわたしにとっては、とりわけ「公開フォーラム」としてのネットのあり方が身近なテーマとなります。
米国憲法論からは、かなりの距離を感じざるを得ませんが、それ以上に、筆者が言う「自由表現システム」は、いわゆる「匿名」をどう位置付けるのかが最後まで分からないのがやや残念でした。心残りです。
「自由表現システム」に触れた個所で「新テクノロジーが人々の討議をうながし、理性的交流を容易にする限りにおいては」と書いているので、議論をする当事者が匿名であることは前提にしていないように思えます。「理性的交流」を前提にしているんだし、そもそも憲法論なんだから当然、匿名の無責任発言は問題外なんだろうと思う半面、実業の世界では、憲法論から見たら、きっといじましいであろう要素が結構、重要だったりします。
読み進むうちに米国憲法と米民主主義のフレームからややもすると離れ、つい「自分のこと」を考えてしまうので、かなり行ったり来たりしました。同じ「ネット」といい「民主主義」と言っても、日米の状況の違いが気になって仕方がありません。NPOの世界で「実業」やっていて感じることと、ほとんど同質の憂鬱を感じます。やはり自分で考え、立つ以外にないようです。
投稿: schmidt | 2005年4月 7日 (木) 00時44分
schmidtさん:
米国の憲法論は日本で生まれ育ったわたしたちには馴染みのない部分もあるので、わたしは端折りながら読みました。サンスティーンはおそらく、「思想の自由市場」を貫徹するモデルとは別の、伝統的な第一修正モデル、つまりマディソン主義的(共和主義的)の観点から、「表現の自由」の一般理論自体の見直しを行っている学者のようです。
(わけのわからない言い方ですみません。わたしの理解不足のためです。本の中で語られている「自由言論」というのは、匿名や実名の区別は想定されていないのではないと思います)
ところで、schmidtさん同様、わたしの関心も「公開フォーラム」にあります。一定の確立された合理性を有する人たちによる討議・熟慮は、もともと新聞が場所を提供してきたものですし、いまこそマスメディアの今日的な役割を立ち止まって考える必要がありそうですね。情報の有料販売をするだけならYahoo! News や Google News にやってもらえばいいのですから。
投稿: 畑仲哲雄 | 2005年4月 7日 (木) 15時14分
>一定の確立された合理性を有する人たちによる討議・熟慮は、もともと新聞が場所を提供してきたものですし、いまこそマスメディアの今日的な役割を立ち止まって考える必要がありそうですね。情報の有料販売をするだけならYahoo! News や Google News にやってもらえばいいのですから。
まさにそのことが共同通信さんと加盟社の「運命共同体」のテーマだと思います。だからホリエモンが「ニュースは買えばいい」と言うのならどんどん買ってもらえばいいんです。ジャーナリズムの使命のような話は、もともと眼中にない(なくてもいい)人たちなのですから、そのことをとらえてまともに怒ったり、彼自身を評価したつもりになっている方がおかしい。朝日さんがライブドアへのニュース提供をやめたそうです。どんな理由なのかは分かりません。知りたものですが、朝日がジャーナリズム担っているつもりで「ライブドア」を忌避したのだとしたら、やはりけんかの筋を少し外しているような気がします。
投稿: schmidt | 2005年4月 8日 (金) 10時01分
schmidtさん:コメントをありがとうございました。ライブドアの堀江社長が考えるニュースの価値判断と、新聞社が考える「ジャーナリズム」とでは、方向性も次元も違うので、話がかみ合わないのは当然といえば当然ですよ。でも、わたしは、異なる意見を公開の場で出し合える関係にこそ意義を見いだしたいなあと思うわけです。自分たちと違う意見を排除する性向が強まれば、それはジャーナリズムの敵となりかねない。「ホリエモンにはジャーナリズムが分かっていない」と寄ってたかってバッシングをする現象を前にすると、頭を抱えざるを得ないです。
※schmidt さんからいただいたコメントの中に、気になる企業名(笑)がありましたが、それについては当ブログの位置づけにも関わることですので、後日あらためて、私なりの見解をキッチリ書きます。
投稿: 畑仲哲雄 | 2005年4月 8日 (金) 12時10分
schmidtさんからいただいたコメントのなかに、「共同通信さんと加盟社の『運命共同体』のテーマだと思います」という文章がありました。そのことで、少し説明をしなければならないと思い、いまこれを書いています。
まさに、加盟社と共同通信社の関係は「運命共同体」。事実関係に間違いはありません。しかし、わたしがハっとしたのは、表現内容の事実関係ではなく、その背景です。つまり、わたしの勤務先とschmidtさんの勤務先が「運命共同体」の関係にあるためです。はてな検索で「共同通信社」を調べると以下のような説明がなされています。
わたしとschmidtさんはネット以外の場で、つまり、仕事を通じて知り合いました。わたしにとってschmidtさんは尊敬すべき先輩であり、頼れる相談相手でもあります。いくつものことをschmidtさんから学びましたし、これからも刺激を与えてもらいたいと願っています。(←オベンチャラではなく、これは本心です。こういう上司にお仕えしてみたかった)
ただ、第三者に対して誤解されたくないなあと思うのは、わたしはこのブログを、勤務先の業務と完全に切り離して運営しているということです。平たい言葉でいうと、このブログは報道機関の編集スタッフが、仕事をさぼってワケのわからんことをグダグダ書いているのではなく、大学院の修士課程に籍を置く社会人が備忘録を兼ねてつづっている身辺雑記だということです。
たしかに、オフラインのわたしを知る人はこのブログを「記者ブログ」のひとつだと思うでしょう。それは当然のことです。
でも、わたしはこのブログで勤務先での業務については触れていませんし、触れるつもりもありません。勤務先のイメージアップに繋がるようなことをしたいとも思わないし、コンプライアンスに関わる問題でも降ってこなければ、勤務先を告発したり社長を糾弾したりすることはないと思います。(必要に迫られれば刺し違えてでも・・・・?)。
このブログで、わたしは大学で見聞きしたことや、考えたこと、悩んだこと、そして触発された論文に関する備忘録を書いてきましたし、これからも書くつもりでいます。わたしの大学院における研究テーマはジャーナリズムに関した内容です。勤務先でのシゴトもジャーナリズムに関わるような部分もあるので、エントリーによってはアカデミックな世界と実業の現場の話が混ざり合う可能性もあります。しかし、軸足はあくまでも「研究」に置きます。
生意気なようですが、わたしのブログが、ジャーナリズムやマスメディアに関心のある人--編集系の人であろうとなかろうと、研究者であろうとなかろうと--の参考になればいいなあ、と願っています。
いろんな意味で、schmidtさんからいただいたコメントは、わたし自身の立ち位置をあらためて明確に表明するとても良い機会であったと思います。いえ、もっと正直に書いてしまうと、こういう機会がやってくるのを、わたしは虎視眈々と狙っていたのかも知れません(笑い)。なぜなら、こんなことを書くのは、気恥ずかしいことですから。そう考えると、わたしはschmidtさんのコメントをダシにして、ここぞとばかりに好き勝手なことを書いているといえます。
schmidtさんならばきっと許してくれだろうと信じて、少しだけ筆を滑らせて、いくつかの疑問を書いておきます。
マスメディア企業体と労働契約を締結している編集職の人たちが運営するブログ(いわゆる「記者ブログ」)がこのところ増えています。会社での仕事と社外活動のブログとの切り分けはラクではないだろうなあと想像します。ときに話題が仕事に絡むこともあるでしょう。内心ヒヤヒヤしながら書いている人もおられるのと想像します。このためかどうか知りませんが、多くの「記者ブログ」はペンネーム、つまり匿名で書かれています。
なぜこんな現象がが起こるのでしょう。
ペンネームだから真実が書けるのでしょうか。匿名だからホンネを語れるのでしょうか。あるいは、名前を出すのが恥ずかしいだけなのでしょうか。材料不足でわたしにはよく分かりません。
テレビ局の記者は顔と名前をさらしてリポートをします。署名記事を書いている新聞記者も少なくありません。でも「記者ブログ」を立ち上げる理由は、本業のシゴトが実名ゆえに(会社の金看板を背負っているからこそ)伝えられないものがあると感じているためでしょうか。記者サイトの中には(それらが良い意味でも悪い意味でも)人気サイトがあります。アクセス数の多い「記者サイト」に群がる読者は、運営者に何を期待しているのでしょうか。マスメディアと記者ブログの言説にどのような違いを見いだそうとしているのでしょうか。
研究者未満のわたしには何もかも疑問です。まだ問題をとらえるフレームも理論も見いだせていません。そうした疑問を、修士論文の中で消化できればいいなあ、と考える今日このごろです。
投稿: 畑仲哲雄 | 2005年4月 9日 (土) 02時46分