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2005年4月27日 (水)

O先生のゼミで発表

okadaきょう、世論研究の大家として知られる著名な先生のゼミで発表をする。たった1週間で関連文献・図書にじゅうぶん目を通すことができなかったのが悔やまれるが、無謀にもトップバッターとして「やります」と手を挙げた以上、最善を尽さなければならない。緊張するなあ。

岡田直之(2005)『現代社会におけるマスコミ・世論の種々相』学文社

世論――。だれもが体験的に知っているつもりでいるが、万人を納得させる説明ができない。過去、何人もの研究者が定義付けに挑んできたが、ことごとく撃沈したと言われている。

そういえば、M1のときに履修した基礎ゼミのときの発表テーマが世論研究だった。このときの課題文献は下記の2冊だった。
シャンパーニュ, パトリック(2004)宮島喬(訳)『世論をつくる』藤原書店
Noelle-Neumann, Elisabeth(1988)池田謙一(訳)『沈黙の螺旋理論』ブレーン出版

でも、それだけでは到底足りないので、関連文献として以下の3冊を斜め読みした。

リップマン,ウォルター(1987)掛川トミ子(訳)『世論』岩波文庫
高橋徹(1960)『世論』有斐閣
岡田直之(2001)『世論の政治社会学』東京大学出版会

フランス現代史に明るくないわたしには、シャンパーニュは難しかったし、ノエレ=ノイマンの「沈黙の螺旋」仮説にも目眩を覚えた。混乱の極みにあった頭を最もきれいに整理してくれたのが、じつは岡田先生の『世論の政治社会学』だった。以来、岡田先生は憧れの対象となっていた。謦咳に接することができるだけでも大変な喜びである。だからこそゼミでは緊張してしまう。

今回の発表の課題図書は岡田先生の研究書ではないのが残念だ。
小林雅一『グローバル・メディア産業の未来図』(光文社新書 2001)
・・・・・かなしい。ジャーナリストが書いたものと、学者が書いたものとでは、読者対象も目的も違うので、単純に比べるわけにはいかない。でも、なんか軽いんですよ。小林さんの本でいえばこちらのほうが面白かった。
『隠すマスコミ、騙されるマスコミ』(文春新書 2003)
ここで紹介されているスカッグス氏のメディア遊びは最高でした。

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コメント

自己レスです。

>・・・・・かなしい。ジャーナリストが書いたものと、学者が書いたものとでは、読者対象も目的も違うので、単純に比べるわけにはいかない。でも、なんか軽いんですよ。

この部分について、知り合いのライターから「おまえの物言いは横柄なんだよ」と批判されました。ライターによると「キミの文章を読んだ人は、ジャーナリストが書く物は学者の書く物に比べて軽い→軽いからダメだ、というふうに読み取れる。そういう物言いこそ、安直で軽いんじゃないか」とのことです。なるほど、言われてみれば、わたしの物言いは横柄で傲慢に映ります。指摘してくれたライターさんには、この場を借りて感謝の気持ちをお伝えします。ほんとうにありがとう。(でも、どうせならブログにコメントしてよね)

わたしが言いたかったのは、せっかく大学院のゼミで発表する機会を与えられるのであれば、学術世界で通用するような(つまり学者の手による)本や論文に取り組みたかったということです。学者が書く物は中身があって、ジャーナリストが書く物はおしなべて「軽い」というつもりはありませんでした。両者の間に一元的な優劣関係を持ち込むことは、本意ではありません。もしわたしが《学者=高レベル、ジャーナリスト=低レベル》という図式で世の中を見ていると思われたのであれば、それはわたしの表現力のなさとしか言いようがありません。《畑仲個人=低レベル》と思ってください。レベルが低いのは事実ですから。

ただ、ここで泣き言めいた自己批判ばかり書いても仕方がないので、「なんか軽い」と書いた理由のひとつを開陳します。

小林さんは「はじめに」の部分で、P.F.ラザースフェルドの2段階の流れ仮説を「正鵠を射ているように思う」と書いていました。数年ぶりに読み返したときに、「本当に正鵠を射ているのかなあ、そんなザックリ言っちゃって良いのかなあ」と首をかしげたわけです。メディア研究者ならこういう書き方はしないだろうなあ、というのが「軽い」と思ったことのひとつです。小林さんは、オピニオンリーダーたちが小林さんの書いた記事を、さも自分のオリジナルのように披露している例を示したうえで、2段階仮説の正しさを実感されているのも、なんだかなー・・・・だったのです。

蛇足かも知れませんが、わたしはこのブログで、J.バトラーの翻訳を“悪文”だと決めつけたことがあります。研究者しか対象としない書物や論文が必要とされるのは分かります。でもわざわざ、修道院の僧侶だけに許されたような書物にするセンスを疑ったわけです。

でも、じぶんの能力のなさや努力不足を棚に上げて“悪文”と罵る態度も、考えてみれば傲慢で横柄です。1年間ばかり大学院に通っただけで社会学徒気取りになってみたり、みずからの無能さが露呈しそうになるとフツーの市民の立場で文句を言ってみたり・・・・ なんだかとっても嫌な人間ですね。しかも、こういう言い訳をツラツラ書きつづるセンスというのも露悪的すぎて・・・・ああ、もう何も書けない!

いずれにしても、ジャーナリストも社会学者も、微妙に違う立場から社会を観察しようとします。このため、ともすれば親近憎悪のような感情が起こりやすい。わたし自身、両方の立場が分かるようで、その実、どちらかの立場に徹することができない---そんな窪みに落ち込んでしまっているようです。自分自身がとてもあやうい所にいるのだという自覚だけは持ち続ける必要がありそうです。

そういう意味で、今回のライターさんの指摘はとてもありがたかったのです。(でも、どうせならブログにコメントしてよ。なんだか自作自演みたい)

投稿: 畑仲哲雄 | 2005年4月28日 (木) 00時25分

発表おつかれさまでしたm(__)m
全く未知の分野だったので、まとまって読み込んでいたhataやんの発表は理解しやすかったです★「ほぇ~」の連続でしたよw
今度の2005mscがドキドキしてきました。笑
ありがとうございましたm(__)m


投稿: にゃん | 2005年5月 2日 (月) 14時17分

にゃんさん:こんばんは。いやー、つたない発表でした。お恥ずかしい。話はそれますが、O先生のゼミに出られるなんて、私たちは本当に幸せ者ですヨ。贅沢すぎます(ぜったいにサインをもらいます)。にゃんさんも発表がんばってね。

投稿: 畑仲哲雄 | 2005年5月 2日 (月) 22時37分

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