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2005年4月29日 (金)

マディソン主義的共和主義

「表現の自由」や「思想の自由市場」などをめぐるキャス・サンスティーンの考えについて解説してくれている論文を、院生室で埃をかぶっていた紀要のなかに見つけた。2005年4月3日のエントリー「マスメディアと公開フォーラム」を補強するため、ちょっとだけメモしておきたい。

八幡有信(2001)「現代情報社会における市民性と表現の自由論-サンスティンの場合」『東京大学社会情報研究所紀要』No.61, pp.197-229

サンスティンの理解によれば、言論・表現の自由に関する現在のアメリカ法システムは、「思想の自由市場」論を貫徹したものにはなっておらず、そこには、「思想の自由市場」論を典型とする「市場モデル」とは別個の、もうひとつの伝統的な第一修正モデル、すなわち、「マディソン主義的モデル」が反映されている。(p.205)

詳しい背景知識がないので間違っているかも知れないが、国家からの介入に対して懐疑的な立場に立つのを「市場モデル」とすると、「マディソン主義的モデル」というのは必ずしもそうではない立場である。国家による言論・表現規制は現実に行われている。それは米国の放送制度を見れば明らかだ。FCCは放送局に対して免許を与えるかどうかという事前規制をしているし、多様性(diversity)や適合性(conformity)といった内容規制もしている。新聞や出版業界の場合には違憲となるような規制だが、そうした規制の背景には、放送が「市民の情報基盤の形成」のために格別の規範性が求められると考えられる。市場性と国家介入は必ずしも対立する概念ではない。重要なのは、「熟慮的民主制」の担い手たちが「共通善(public good)」を求める議論をするための基盤を作るべきではないか・・・・・・というようなことが書かれている(はずだ)。

マディソン主義的共和主義ってなんだろう。備忘録として、キモの部分を引用しておく。

マディソン主義的共和主義によれば、政治過程を利益集団間の取引過程として捉える多元主義的な政治理解は少なくとも規範理論としては不当である。アメリカ憲法システムは「公共の熟慮(public deliberation)」を通じて政治的帰結に到るという「熟慮的民主制(deliberative democracy)」システムであり、政治的熟慮、市民性、統制的理念としての合意、政治的平等にコミットしており、その中心的な民主的目的は、「ありうる行動経路についての熟慮された討論を促進すること」と理解すべきである。(p.206)

サンスティーンは、市民たちの公共の関心事について政府こそが広範なコミュニケーションを促すべきという立場に立ち、「言論へのニュー・ディール」を提唱する。むろん国家の介入によるリスクについてサンスティーンも指摘しているが、『インターネットは民主主義の敵か』(毎日新聞社 2003)で見られたサンスティーンの視点が、この論文からよく読み取れる。『インターネットは~』で書かれていた「公開フォーラム」は、八幡論文のなかに記されている「市民性の情報的基盤の形成」と同じ問題意識で語られたものだ。

いずれにせよ、国家介入に対して「はんたーい!」と脊髄反射してきた単純人間のわたしにとって、サンスティーンの議論はかなりショッキングだった。八幡はサンスティーンに対する批判や異論も少なくないと記しているが、機会があれば、どのような議論が行われているのかもっと知りたい。

■関連リンク
シカゴ大サンスティーン教授のサイト
ホワイトハウスのジェームス・マディソンのページ
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』の「ジェームズ・マディスン」

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