新聞/新聞社/新聞記者
奥付によると、筆者の中馬さんはこういう人だ。
1935年 鹿児島市に生まれる
1960年 東京都立大学卒業,朝日新聞社に入社.秋田,横浜支局を経て政治部員,同部次長、論説委員、同主幹、代表取締役専務・編集担当などを歴任.この間,米国マサチューセッツ工科大学・国際問題研究所客員研究員(1983-84)
現在 - 朝日新聞社顧問,同アジア・ネットワーク会長
社内的に「出世」したエリートであるばかりか、MITで研究員を務めたというから社外的にも申し分なく「立派」なジャーナリストである。林先生が『マスメディアの周縁、ジャーナリズムの核心』(新曜社,2002)のなかで分析した家庭面記者とは対極にあるといっていい。
たとえば、中馬さんは「第一章 浮き沈みの末に-新聞の昨日」のなかで、1960~70年台に新聞社が急成長した背景を、当時の経済・社会情勢から分析する。続いて若者の新聞離れの原因を若年層のリテラシー低下に求め、政治面主導の弊害にも言及する。しかし、最終的には表現の問題に収斂していく。漢字が多く、一文が長い新聞文章の弊害がすべての原因とは言わないが、時代の変化に新聞社が注意を払ってこなかったと結論づける。だが、周縁性ゆえに変化に敏感にならざるをえなかった家庭面記者や、実業を担っていた販売や広告スタッフたちがその当時、そうしたことに気付き声を挙げていたとしても、いったい誰が政策に採用しただろうか。
駆け出しの政治部記者だったころ、政治家のなかには三木武夫、出井一太郎、前尾繁三郎、大平正芳、宮沢喜一、成田智巳、上田耕一郎など、大変な読書家、勉強家がたくさんいた。こうした人たちとの語らいのなかで、私たちは机に向かって学ぶ以上のことを得たように思う。話題はもちろん「天下国家」になりがちだったが、それだけではなかった。ベストセラーから流行まで、ネギの値段から世界経済の行方まで幅広いものだった。その意味で、すべての政治部記者は「非日常的論理」の世界に生きていた、と一方的に決めつけるのは正確さを欠くという気がする。(p.48)
大物政治家たちと「天下国家」からネギの値段や流行まで幅広く語った新聞記者の中馬さんは、文面からはとても良心的な人物だと思える。だが、新聞社を代表して権力者と会っている関係上、じぶん自身を「新聞」や「新聞社」と区別して内省する経験がほとんどなかったのではないのかな――と書くと勘ぐりすぎか。あえてここでネギの値段や流行に言及しても、中馬さんが政治部を頂点とするヒエラルキー構造を是とし、つねにエリート記者であり続けたことが、ソフトなものに中和されるわけでもあるまい。中馬さんはスター記者であり、新聞の顔であり、新聞社重役であった。つまり圧倒的な勝ち組なのだから。
一人の視点で全体を俯瞰することなどできるはずがない。事業体としての「新聞社」と、媒体としての「新聞(紙)」、そして編集スタッフとしての「新聞記者」を切り分けて論ずる必要があると思う。新聞社(経営者)からみた新聞と、新聞記者からみた新聞とでは様相が違うはずだ。そうした差異の集合体を観ていかないと、内部的自由や編集権、従業員の表現の自由や著作権といった問題群が隠蔽されるような気がするのである。
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コメント
先日、東京メトロの車内広告で「全紙調査!●●報道」のコピーがありました。「まさか」と思ったらやはり東京5紙のことでした。地方やコミュニティーから発想するトレーニングが必要ありませんでした。これまでの日本は。
でもそうではいかんのだと思います。東京から見る視点、多様な地方から見る視点、さらにはネット社会特有の「コミュニティーの多義性」も十分を踏まえながらのジャーナリズムって、どんなものなんでしょう。
それにしても「全紙調査!」はまずいよな。うそなんだから。
投稿: schmidt | 2005年5月24日 (火) 04時45分
schmidtさま:5紙で「全紙」とは、なんかだか脱力しますね。そういえば、中馬さんの本にも「中央主要紙」というような表現や、東京中心主義みたいな視線がちらほら見受けられました。うーむ。
投稿: 畑仲哲雄 | 2005年5月24日 (火) 23時53分