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2005年6月 6日 (月)

地方紙にこそ可能性?

terashima「コミュニティとつながる米国の地方紙」というサブタイトルの付いたノンフィクションが刊行された。仙台市に本社がある河北新報社で論説委員をしている寺島英弥さんが執筆した『シビック・ジャーナリズムの挑戦』である。寺島さんは2002年夏から03年春まで、ノースカロライナ州ダーラムのデューク大学にフルブライト研究員として渡米した。その際、米国各地を回ってシビック・ジャーナリズム/パブリック・ジャーナリズムの実践者や研究者たちを取材し、この本を執筆したという。

寺島英弥 (2005) 『シビック・ジャーナリズムの挑戦 ― コミュニティとつながる米国の地方紙』 日本評論社

シビック・ジャーナリズム(Civic Journalism)という言葉から連想されるものとして以下のものが挙げられる。パブリック・ジャーナリズム(Public Journalism)、オープンソース・ジャーナリズム(Open-Source Journalism)、参加型ジャーナリズム(Participatory Journalism)、草の根ジャーナリズム(Grass-Roots Journalism)・・・。どれも似ているようで、成立や運動の理念・哲学、担い手たちが微妙に違っている。最初にすごく乱暴なくくり方をさせてもらえば、すべてに共通しているのがオルターナティブという周縁性である。つまり、ニューヨーク・タイムズ(以下NYT)やワシントン・ポスト(以下WP)につきまとう形容詞「一流」「高級」「中央」「権威」に対するオルターナティブである。有名ブロガーや、韓国「オーマイニュース」のようなオンラインの言論活動もオルターナティブな存在といえる。

寺島さんが本の中で描いているのは、米国の地方紙によって実践されている「パブリック・ジャーナリズム」と「シビック・ジャーナリズム」の現場だ(地の文では「シビック・ジャーナリズム」で統一されている)。これらのジャーナリズムは1990年代の米国で議論され、運動として取り組まれるようになった。同書によると、米国の全地方紙の5分の1が取り組んでいるという。それらを可能にしてきたのは、地方紙のスタッフたちの努力もさることながら、ジャーナリズム研究者やNPO関係者、そして地元住民の協力に負うところが大きい。シビック・ジャーナリズムは、地域のさまざまな問題を地元の人と一緒になって考え、解決していくものであり、新聞社にとってみると自分たちが地域で求められる理由を確かめていく作業のようである。

そうしたシビック・ジャーナリズムの考え方は、NYTやWPの報道とは思想的にも対立する。NYTやWPが個人の権利を重視するリベラリズムに重きを置いているのに対し、シビック・ジャーナリズムが「共同体」への貢献を志向していることだ。わが指導教官の言葉を借りれば、シビック・ジャーナリズムは、「近代リベラリズムが社会にもたらした功罪を検証していこうとするコミュニタリアニズム的動機に支えられたジャーナリズムである」(林香里[2002: 180])といえる。

90年代から21世紀かけて、米国ではテレビ局や映画会社、IT企業を巻き込んだ企業買収がさかんにおこなわれ、「メディア・コングロマリット」「メディア・ジャイアント」と称されるグローバルな複合企業体ができた。新聞社はそんな荒波に飲み込まれることはなかったが、全体的な部数を落とすなかシンジケート化やグループ化が進み、様相を変えつつある。そんななか、地方紙の5分の1がコミュニタリアニズムに近いシビック・ジャーナリズムを選択したという事実は小さくない。NYTやWPはもちろん、全国紙USA Today、通信社のAPなどがどんなに頑張ってもコミュニティとつながることはできない。それができるのは地方紙においてほかにない。

■関連リンク
・寺島英弥『シビック・ジャーナリズムの挑戦』日本評論社、2005.05(bk1amazon
「市民ジャーナリズム」河北新報ウェブサイト『Web日誌』2005.05.18
Witt, Leonard "Japanese Journalist Writes Civic Journalism Book" PJNet TodayMay 23, 2005 12:16 AM
ITO, Takashi ((2005) "Public Journalism and Journalism in Japan" Keio Communication Review No. 27,

追記:仰げば尊し我が師の本によると、「『パブリック・ジャーナリズム』が、民主主義におけるジャーナリズムの責任を追求しながら、ジャーナリズム内部のさまざまな制度改革を志向しているのに対し、『シヴィック・ジャーナリズム』は、ジャーナリズム内部というよりは、その外側にあるコミュニティの再建を運動の照準に据え、そこに奉仕するジャーナリズムの役割とは何かを模索する点を強調している」(林香里[2002: 415])という。この本にはほんとうに何でも詰まっていて、ビビってしまいます。わてホンマによゆわんわ!

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コメント

初カキコです。
ハヤやんさんのブログを読んで、地方紙の横綱と言われている私の地元の新聞社にぜひ、シビック・ジャーナリズムを実現させてほすぃ!と思いました。
ちょいと提案してみます。

投稿: みとゴルゴ | 2005年6月 6日 (月) 10時04分

みとゴルゴさん:こばわ!カキコありがとうございます。「横綱」の新聞社は「シビック・ジャーナリズム」に取り組む必要性を見いだすでしょうか。寺島さんの『シビック・ジャーナリズムの挑戦』と、わが師の『マスメディアの周縁、ジャーナリズムの核心』を読んでみてくださーい。みとゴルゴさんの修論に関係するかもよ。

投稿: 畑仲哲雄 | 2005年6月 7日 (火) 00時29分

明後日(明日)休みまーす♥
内容的には一番興味があったんですけど。。。。

投稿: マーク・ハント@ハタ | 2005年6月 7日 (火) 02時19分

マーク・ハントさん:こばんちは。「明後日(明日)休みまーす♥」って、・・・そういうのはメールでおくれよ。あと、「♥」ってどーよ?

投稿: 畑仲哲雄 | 2005年6月 7日 (火) 02時45分

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地方紙の時代だ、と私のブログにも時々書いている。地方紙のニュースはすべてがHPにアップされているわけではないし、面白い連載も同様である。それでも各紙のHPをたどっていると、実に面白く、意欲的な連載企画等に出会う。 考えてみれば、当たり前である。「全国紙」と何気なく言っているが、「全国紙」と言っても地方に行けば、人脈や陣容・取材網、過去の蓄積等々において、それぞれの地方紙にかなうはずがない。全国紙の支局がどんなに頑張っても、勝負は最初からついているケースが実に多いし、陣容が違うのだから、記事のス... [続きを読む]

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