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2005年7月31日 (日)

社会の一所産に過ぎない

05_tosaka第二次大戦前、新聞現象をイデオロギー論から精緻に分析していた哲学者がいた。戸坂潤(1900-45)。昨年、H&H先生の基礎ゼミで読んだときに「へえー」と思ったのは新聞を《現象》として捉える視点だった。書店に並ぶジャーナリズム関係の書物の多くは、ジャーナリストがいかなる報道をすべきか、あるいは組織としての新聞社がどんな言論活動をしたかなど送り手に目を向けられがちで、わたし自身、そういう見方が染みついていた。読者に重きを置きながら新聞の社会的機能を見つめる視点は、デジタル化の変動にさらされる今日のマスメディアを考えるうえで示唆に富むのではないかと思い、読み返してみた。(結構むつかしかった!)

戸坂潤(1933=1966)「新聞現象の分析-イデオロギー論による計画図」『戸坂潤全集』第三巻、勁草書房、pp.118-144
戸坂潤(1933=1966)「新聞現象の分析-イデオロギー論による計画図」、鶴見俊輔編(1966)『ジャーナリズムの思想』現代日本思想大系12、筑摩書房、pp.236-272

考えさせられたのは、新聞現象における3つの要素を分析した第2節。新聞現象の要素は(A)インスティチュート=新聞社組織、(B)機関=新聞紙、(C)人的要素=読者――という三者によって生じる。「記者」は(C)に入りそうな気もするが、戸坂は、記者を編集部員や営業計画部員などと同じく(A)の新聞社に属する人的要素にすぎないと分類。「吾々は新聞のインスティチュートと機関とに並べて独立する 人的要素を、特に読者の内に見出さねばならないわけになる」と述べる。気に入ったのは、「新聞は新聞紙でもなければ新聞社でもない、まして読者層でもない。こういう諸項目のある関係が新聞の現象なのである」という見方だ。

では、ウェブサイトはどうか。ウェブサイトは新聞紙という機関に載っている記事や新聞社からのお知らせなどが掲載されている電子媒体で、戸坂流にいえば《第二の機関》といってもよいのではないか。ウェブサイトは紙の機関とは違って「双方向」の使い方ができる。たとえば戸坂の時代に(C)の人的要素である読者は読者に過ぎず、それ以上のものではなかったけれど、インスティチュートに属さない「読者」が《第二の機関》で報道をしたり、寄稿をしたり、批評をしたりすることが可能となる。やりようにっては、編集権の問題が発生する可能性もあるが、ウェブの登場で新聞の現象は位相が変わってしまったと言えそうだ。発言する読者層の出現によって、現象としての新聞は変貌を遂げつつある。

戸坂は第3節で新聞紙の要素としての報道、広告、批評について議論を進め、第4節でジャーナリズムの日常性と政治性について新聞の概念を問い直し、続く第5、6節では社会的機能について分析している(←ルーマンの機能構造主義にも通じるのなかな?)。時代背景が違っていることや、唯物史観的な見方が前面にでているため分かりにくい部分も多いが、最終節では新聞の改革について触れていて、この部分が戸坂論文のキモになる。

新聞の本質はその社会的機能に存する。だから新聞の改革は新聞の社会的諸機能の改革の外にはない。処で、新聞はただ一定社会の諸条件の下に於てのみその社会に適切な社会的諸機能を有つことが出来る。新聞は社会の一所産に過ぎない。新聞の改革乃至変革は、社会自身の変革と対応する外はない、それは社会的変革の原因であり、随伴現象であり、又結果なのである。(戸坂 1933)

新聞といえば紙の新聞、ジャーナリズムといえば記者や新聞社の専管事項・・・というような考え方がまかり通る今日、戸坂が描いて見せた「新聞現象」はわたしには鮮やかに映った。

ちなみに当時のゼミ発表者によると、この論文の初出は1933年で『現代のための哲学』(大畑書店)の一編として所収された。『現代のための哲学』が、翌1934年に『現代哲学講話』(白揚社)として再び出版された。のちに勁草書房から全集が発売になり、「新聞現象の分析」については鶴見俊輔が編んだ『ジャーナリズムの思想』にも収録された。わたしが読んだのは鶴見編のもの。ただ、オンラインには戸坂潤文庫というすばらしいページがあるほか、青空文庫にも15作品が収録されている(←青空工作員に感謝!)。

参考までに戸坂の時代を振り返っておく。戸坂の生きた時代は、第1次大戦と第2次世界大戦までの激動そのもので、信じられないほどの言論統制が行われていた。

1901年(M34) 社会民主党党則・宣言掲載の「毎日」「萬朝」など7紙誌差し押さえ、安寧秩序紊乱で起訴
1904年(M37) 陸・海軍省、軍機・軍略事項の新聞・雑誌掲載禁止
1904年(M37) 平民新聞、「共産党宣言」訳載して発禁
1904-05年(M38-39) 日露戦争
1905年(M38) 政府、治安妨害の新聞・雑誌の発行停止権を内務大臣に付与(勅命)、「大朝」「東朝」「萬朝」「報知」など続々発行停止
1905年(M38) 第一次ロシア革命
1905年(M38) 新聞雑誌緊急取締勅令により万朝報、都新聞、報知新聞、二六新聞が発行停止
1907年(M37) 内務省、在カリフォルニア日本人発行の雑誌『革命』を発禁差押え
1909年(M39) 新聞紙法発令
1913年(T02) 桂太郎内閣打倒国民大会参加者の一部、内閣支持の「都新聞」「国民新聞」「やまと新聞」「読売新聞」など各新聞社を襲撃
1914年(T03) 「二六新報」、シーメンス事件批判で発禁、「二六新聞」と改題創刊
1914-18年(T03-07) 第1次世界大戦(1914年に日本は対独宣戦)
1918年(T07) 寺内正毅内閣、米騒動の報道禁止。「大朝」26日付夕刊記事「白虹日を貫けり」で発売禁止、9月新聞紙法で起訴、12月有罪判決(白虹筆禍事件)
1917年(T06) 第二次ロシア革命
1917年(T06) 警視庁が活動写真取締規則を発令(映画検閲の始まり)
1919年(T08) ロシアの第3回ソビエト大会で社会主義社会建設宣言
1920年(T09) 森戸東京帝大助教授が論文「クロポトキンの社会思想の研究」で新聞紙法違反(朝憲紊乱)で起訴(森戸事件)
1925年(T14) 治安維持法成立(4月)
1928年(S03) 婦人矯風会など、内務省に女性誌の性愛記事取締を請願
1925年(T14) 牧野省三プロダクション製作『日輪』が不敬罪で告訴される
1929年(S04) 『幸徳秋水思想論集』発禁(このころ左翼関係の書籍、雑誌の発禁急増)
1933年(S08) 内務省、左右出版物取締強化のため検閲制度の大改革、併せて出版警察を拡充(出版法)
1933年(S08) 「信濃毎日新聞」、桐生悠々「関東防空大演習を嗤ふ」掲載、問題化
1934年(S09) 出版法改正公布(皇室の尊厳冒涜・安寧秩序の妨害などの取締強化、レコード検閲)
1936年(S11) 二・二六事件。反乱軍の一隊、東京朝日新聞社に乱入、活字台を転覆、午後7時まで事件の報道禁止
1936年(S11) 内務省警保局、伏せ字の悪用排除、不穏文書、皇室関係用語の厳重取締を明示
1937年(S12) 内務省警保局、「人民戦線派」の執筆禁止を出版業者に通告(人民戦線事件)
1937年(S12) 内務省・文部省を主務省に国民精神総動員運動開始
1938年(S13) 『人民文庫』連続発禁にあい廃刊。矢内原忠雄、戸坂潤、滝川幸辰などの著作、あいついで発禁
1938年(S13) 『中央公論』3月号、石川達三「生きてゐる兵隊」のため発禁
1938年(S13) 内務省警保局、各雑誌に岡邦雄、戸坂潤、林要、宮本百合子、中野重治、鈴木安蔵、堀真琴の原稿掲載を見合わせるよう内示
1938年(S13) 河合栄治郎著『ファシズム批判』など発禁、出版法違反で起訴
1939-45年(S14-20) 第二次世界大戦
1940年(S15) 内閣情報部改組、内閣情報局に拡充強化
1941年(S16) 国家総動員法による新聞紙等掲載制限令公布
1941年(S16) 情報局、各総合雑誌に執筆禁止者名簿を内示
1941年(S16) 内閣情報局、各総合雑誌に編集プラン、予定執筆者リストの事前提出を通達
1941年(S16) 開戦にあたり情報局、各雑誌社代表を非常招集し、記事差止事項を指示。在京新聞・通信8社主催「米英撃滅国民大会」、各地で同様の大会
1942年(S17) 『改造』掲載論文が共産主義を宣伝するとして細川嘉六逮捕。『改造』は発禁処分。中央公論社員など7人が細川と共産党再建を謀議した容疑で逮捕(泊事件)。44年に中央公論社・改造社・日本評論社・岩波書店等の編集者30余人が相次いで神奈川県特高警察に逮捕(横浜事件)。同年『改造』『中央公論』は廃刊。関係者は治安維持法違反で起訴。拷問で3名が獄死。第2次大戦後に至って初めて公判が行なわれ,45年全員釈放。
1942年(S17) 情報局、東京、大阪、名古屋、福岡地区の主要新聞統合案大綱を決定
1943年(S18) 新聞社の無電班禁止
1943年(S18) 谷崎『細雪』(『中央公論』掲載)が軍の圧力で連載中止
1944年(S19) 『中央公論』『改造』などの編集者検挙(横浜事件)
1944年(S19) 「毎日新聞」、記事「竹槍では間に合わぬ」で差押え、執筆記者懲罰召集
1944年(S19) 情報局が中央公論社、改造社に自発的廃業を命令(両社月末解散)
(※中河氏の日本表現規制史年表、小学館スーパーニッポニカ、三省堂『大辞林』などから引用しました)

京大で数理哲学を専攻した戸坂は法政大などで講師を務めた。その後、三木清の影響でマルクス主義者となり、1932年(S07)に唯物論研究会を創設した。この唯物論研究会は1938年に解散を命じられ、戸坂本人も治安維持法違反で検挙された。1944年9月に下獄し約1年にわたる獄中生活を経て長野刑務所で獄死した。死亡したのは長崎に原爆が投下された1945年8月9日。終戦まで約1週間・・・ 合掌。

■参考サイト
戸坂潤文庫
青空文庫 作家別リストNo.281 戸坂潤
中河伸俊のホームページ 日本表現規制史年表 1868~1993
戸坂潤『日本イデオロギー論』(岩波文庫)
ウィキペディア(Wikipedia):戸坂潤
京都精華大学 中尾ハジメ先生の2002年前期の講義ページ「環境ジャーナリズム」
多磨霊園にある戸坂潤のお墓

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コメント

  「社会現象」として新聞をとらえる視点があるとするならテレビ、ネットを社会現象としてとらえる視点もありそうですね。新聞にかかわる者として非常に悩ましいのは、「新聞」を個別問題として分析することがますます困難になりそうな点です。
 確かに個別問題は山となって存在しそうなのに、そのこと自体を仔細に分析しても、今後のあるべき展開の議論になりにくい感じがします。(これってほとんど弱音ですね)。「社会現象」トータルの中で、新聞メディアを論じ、方向性を提示する力がわれわれ新聞産業自体になければ、ほとんど話になりません。ああ大変だ。

投稿: schmidt | 2005年7月31日 (日) 22時08分

「新聞は新聞紙でもなければ新聞社でもない、まして読者層でもない。こういう諸項目のある関係が新聞の現象なのである」

→スッキリととてもよく理解できましたー。

schmidt さんのおっしゃる、)。「社会現象」トータルの中で、新聞メディアを論じ、方向性を提示する力がわれわれ新聞産業自体になければ、ほとんど話になりません。

→ズギンと感じてしまいます。「新聞産業全体」が認知する日はいつくるのでしょうかー。もしくはやってくるのでしょうかー。悩みが山積しています。

投稿: わかばやしく | 2005年7月31日 (日) 22時21分

schmidtさん: こんにちは! 戸坂の時代から時代は流れ、新聞社は巨大化し、産業化し、商業化し、経済社会も複雑怪奇なおばけのようになりました。すべての人が巨大アリ塚にいる1匹のアリのようなもので、全体を見通すことなんてできないのかもしれませんね。

わかばやしくさん: こんばんは! スッキリ理解してくれてありがとございます。「諸項目のある関係が新聞の現象」というのは、とーっても意味シンですよね。新聞紙があり、会社も社員あり、読者層もいる――でも、それらが関係しなければ、「新聞現象」は起こらないかもしれないのですから。

投稿: 畑仲哲雄 | 2005年8月 1日 (月) 00時46分

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