映画『白バラの祈り』と社会階層
社会階層の話題は昨今、事欠かない。たしかに社会の格差は広がっていると思う。昔から使われている言葉で言えば、持てる者/持たざる者--はやりの言葉で言えば、勝ち組/負け組--の差異が顕著になってきたと叫ばれている。永田町をあるけば二世や三世の議員は当たり前のようにうじゃうじゃいる。国会議員は分かりやすいが、社会階層はさまざまな分野でしっかり“相続”されている。学者の子は学者に、官僚の子は官僚に、医者の子は医者に、法律家の子は法律家に、ジャーナリストの子はジャーナリストに・・・・彼ら/彼女らがノブレス・オブリージュ(noblesse oblige)に基づいた行動をとらずに腐敗すれば、社会はあらぬ方向にドライブがかかるのだろうか。マルク・ローテムント監督の『白バラの祈り ゾフィー・ショル、最期の日々』(2005年、ドイツ)を観て、そんなことを考えさせられた(以下の二冊のうち、シナリオ本は買おうと思っています)。
ブライナースドルファー,フレート(2006)『白バラの祈り―ゾフィー・ショル,最期の日々 オリジナル・シナリオ』瀬川裕司,渡辺徳美訳,未来社
インゲ,ショル (1964)『白バラは散らず 改訳版―ドイツの良心ショル兄妹』内垣啓一訳,未来社
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