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2006年3月21日 (火)

対象、あるいはプレーヤー?

たとえば、IT取材者の所属企業が、今まさにIT時代の生き残りをかけた競争の渦中にある(と仮定する)。このとき取材者(の報道)の独立性や客観性はどのように担保されるだろう。客観主義を採る取材者は、対象から距離を取ろうとする。しかし、いかなる取材者も社会関係のなかに在り、超然とすることは許されない。ましてや、取材者の所属機関がIT時代の生き残りをかけて戦っているアクターであるとすれば、その機関でメシを食う取材者の立場は微妙になる。(今回はたんなる備忘録です。ずいぶん持って回った書き方をしました。他意ははありません。まともに相手にしないでください)

たとえば、政治取材者は、みずからを政治世界のプレーヤーだと位置づけない。つねに対象から一歩距離を置く。じぶんが信奉する思想を記事で賞揚したり、自らに都合の良い言葉だけを並べたりすれば、政治活動とみなされる。「政治活動がしたいのなら、取材者としての地位から降りろ」と命じられるだろう。

政治取材に限った話ではない。元運動選手が取材される側からする側へ(あるいは評論される側からする側へ)と転身する場合も、取材者(あるいは評論家)となった者は特定のチームや選手に肩入れすることは許されない。芸能取材であっても、経済取材であってもみな同じ。取材者が、みずからの言説で対象世界を操ろうとすることは御法度だ。

IT取材をする企業内取材者には、業界取材にありがちなバイアスがかかりやすい(業界内取材の典型は販売関係の諸問題や取材拠点の諸問題)。自らの所属機関の利害に影響を与える言論活動をしなければならないからだ。だからこそ、じぶん(たち)の利益よりも、公共の利益を優先しうるかどうかが問われる。かんたんにいうと、「あー、この人は○○社の息がかかっているわけね」とか「○○業界のプロパガンダだぜ」などと後ろ指さされないような努力が求められるわけだ。

マルチメディアという言葉が飛び交った1980-90年代、新聞やテレビ、雑誌などの伝統的メディアは、技術革新の波を現在ほどまともに受けていなかった。取材対象から一歩距離を置くことは今よりも容易だった。だが、「IT時代」に入り、新聞もテレビも雑誌も、IT戦略を迫られ、みずからヤフーやグーグルのようなIT企業と同等のプレーヤーになってしまった。

取材者にはプロフェッションというものがあるが、やはり、それを保証する制度も必要だ。端的にいえば、編集権問題を克服する必要があるように思う。だが今日、そうした議論が積み重ねられているわけではない。どのIT企業が勝ち/負けるかという“競馬中継”ばりの業界報道、根拠のとぼしい未来予測ばかりが目立つ。

H田先生がT大を去り、4月からW大に移られる。先般おこなわれた最終講義を聴きながら、ポリティカル・エコノミーについて、公共圏論について、もっともっと熱心に教えを乞うべきだったと臍をかんだ。

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