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2006年7月 2日 (日)

公共性についての備忘録(1)

春から、すこし場違いな法哲学系の授業に出させてもらった。ロースクールの授業を学際情報学府の院生が履修登録したのは、わたしが初めてではないだろうか。I先生の解説は、ジャーナリズムの公共性を考えるうえでとても参考になった。じぶんの研究と関連しそうな考え方や用語について備忘録をつけておきたい。間違っていたらご指摘ください。(50音順ではなく、思い出し順)

▽ウェストミンスター・モデル - コンセンサス・モデル
 レイプハルト(Arend Lijphart)による比較政治学のモデル。民主主義はひとつではない。さまざまな形態がある。大統領に強大な権力を任せる民紙主義もあれば、いくつもの政党がひしめきあい選挙のたびに連合(野合)する民主主義もある。そんな統治スタイルをレイプハルトは類型化した。大きな対立のうちの1つが、 The Majoritarian ( Westminster ) Model であり、もうひとつが The Consensus (Consociational) Model (=多極共存型ともいうらしい)。
 Westminster Model と Consensus Model の対比の概要は以下の通り(WM⇔CM)

・議会で多数議席を獲得した単独政党が内閣構成 (concentration of executive power)  ⇔ 多数の政党が連合/連立により内閣を構成 (executive power-sharing )
・行政と立法の溶解 ( fusion of power and cabinet dominance ) ⇔ 権力分立 (separation of power )
・一院制 ( Unicameralism )あるいは非対称な二院制 ( bicameralism )  ⇔ 均衡のとれた二院制と少数代表
・対立軸が一本の政党制 ( One-Dimensional party system )  ⇔ 多数政党制度 ( multiparty system )
・二大政党制 ⇔ 多数政党制
・小選挙区制 ( plurality system of elections )  ⇔ 比例代表制 ( proportional representation )
・集権化 ( unitary and centralized government) ⇔ 分権化 ( territorial / nonterritorial federalism and decentralization )
・unwritten constitution and parliamentary sovereignty ⇔ written constitution and minority veto
 レイプハルトはこうした二項対立で、ウェストミンスター・モデルの優位を主張するが、I先生は、民意反映機能のみを重視し、熟議による公共性形成の機能を捨象している等と批判する。この議論を聞いていて、わたしは「世論調査の結果重視」(民意反映システム)と「輿論」(熟議による公論) の違いを思い出した。マスメディアによる「科学的」な世論調査の結果が完備されていなかった時代、 W.Lippmann と J.Dewey が public opinion や うつろなpublic をめぐって論争をした。この議論は古ぼけてはいない。むしろ、民主主義とジャーナリズムを考える際に、立ち返らなければならない基本的な枠組みのように思う。

▽熟議の民主主義 ( deliberative democracy )

 民意をもっとも反映する意志決定の仕組みは、代議制の間接民主主義などではなく、直接民主主義である。古代ギリシャのポリスに集ったのは「成年男子」なので「全員参加」というわけではないが、代理人に決定を委ねるのではなく、みんなで延々議論をして、みんなで決定し、みんなで責任を負うのは、民主主義の理念に沿っている。多数決は民主主義のなかでももっとも基本的な手法なのだ。だが、なんでもかんでも多数決を採ればよいというものではない。国民的な議論を積み重ねることをせずに、いきなり多数決を採って決着してしまうような仕組みは、deliberative ではない。"Democracy should be deliberative. Deliberation should be democratic". の言葉の通り、直接制であれば間接制であれ、熟議を欠けばデモクラシーを否定してしまう。このラジカルでプロセスを重視する民主主義理論は、現代自由主義に対する批判で、J・コーエンやJ.ハーバーマスなどが論者として挙げられる。
 問題がないわけではない。deliberative democracy には参加者の「理想的な討議」というものが前提となる。古代ギリシャのポリスでは女性や奴隷(労働者階級)が排除されていたように、現代社会で deliberative democracy の理想を追求しようとすると、いろんな問題が生じる。
 たとえば、公開の討議を重ねることで真理を発見していこうとするプロセス志向は、利益集団多元主義に陥りやすい。プロセスが守られたとしても実体的な価値が忘れられると、討論の場が argument 交換ではなく、interest 交換の場へと堕しかねない。また、I先生は、保守化や無責任化についても指摘している。わたしたちは経験的に、熟議資源が公正に配分されていないことを知っている。ありていに言えば、あすのメシを心配したり借金返済に汲々としたりして暮らしている人と、公共の問題を熟慮できる精神・物質的に余裕のある人たちとが、対等に熟議できるはずがない。これでは議論に“勝つ”のはエリート層だけとなり、社会は保守化してしまうし、議論を操作することも可能になる。ハーバーマスがいうような「理想的な発話」は、あくまでも「理想」であって、status quo の問題から目そそらすことはできない。
 こうしたI先生の議論を聞いていて思ったのは、やはり Lippmann の大衆観である。新聞記者 Lippmann は、大衆に期待をしすぎることに警鐘を鳴らした。統治者の任に就くべきは、ロースクール出身者などのエリート層であるべきだというその大衆観に、Dewey が反駁した。Common man の思想から独自の哲学を作り上げた教育哲学者は、どちらかといえば deliberative democracy の立場に近い人かも知れない。Lippmann-Dewey debateは、結果的にLippmannの勝利に終わったが、NYUのJ.Rosenは、Dewey が勝つべきだったと述べたそうだ。(いかん、話がどんどんそれてきた)
 このところ「参加型」「議論型」の政治、行政、司法やジャーナリズムについて語る人をよく目にする。行政や司法やジャーナリズムの問題群があり、それらの処方箋としての提言もある。似たような枠組みの議論が時を経て繰り返されているのは興味深い。
 「熟議の民主主義」があるのだとすれば、「熟議の報道」「熟議のジャーナリズム」を提言することも可能ではないか--もちろん、それが万能だとか、究極だとかいう資格はわたしにはないが、すくなくともパブリック・ジャーナリズムの多くは、デリベラティブなものだったと思います。

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