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2007年9月 6日 (木)

ノスタルジー粉砕

Chomskynoam250_4徹底した平和主義者として知られるノーム・チョムスキーの本を何気なしに読んでいたら、二点ばかりハっとさせられた。ひとつはチョムスキーがジョン・デューイをけちょんけちょんに罵っていたこと。もうひとつは、ベトナム反戦運動が盛り上がったのは、戦争も末期になってからのことで、多くの知識人がダンマリを決め込んでいたということだ。

チョムスキー,ノーム(2003)『メディア・コントロール-正義なき民主主義と国際社会』, 鈴木主税訳, 集英社新書

チョムスキーを撮ったドキュメンタリー映画『チョムスキーとメディア―マニュファクチャリング・コンセント』(ピーター・ウィントニック&マーク・アクバー,1992)のタイトルである "Manufacturing Consent" とは、「合意のでっちあげ」。チョムスキーによると、この「合意のでっちあげ」を説いていたのが、かのウォルター・リップマンである。デューイはそんなリップマンと論戦をおこなったし、そもそもチョムスキーは「デューイ学校」のようなところで基礎教育を受けていたはず。だが、チョムスキーはこう書く。

ウィルソン参戦の意向を積極的かつ熱狂的に支持した人びとの一部は、ジョン・デューイを中心とする進歩的な知識人だった。デューイをはじめとする人びとがそのころ書いた文章を読めばわかるとおり、彼らは自分たちのような「社会の知識階層」が、躊躇する一般の人びとを鼓舞して、戦争に駆り立てることができたことをたいへん誇りにしていた。実際には、人びとを怯えさせ、狂気じみた好戦的愛国精神を引き出しただけなのだが。(p.14)

正直、ちょっとビビった。湾岸戦争からアフガン空爆、イラク戦争に突入した米国を見ていると、同調圧がいとも簡単にかかることが想像できる。もちろん日本もえらそうなことおあ言えない。九〇年代のオウム騒動のときに「進歩的知識人」たちが似たような振る舞いをしていたことを、私たちは目の当たりにした。一見、進歩的と思える「知識人」ほどクセ者。どうも私はデューイ先生を美化しがちだった。反省。

本の後半で、チョムスキーは辺見庸のインタビューに対し、ベトナム戦争に知識人が反対を表明したのが、ずいぶん後のことだったと述べている。

ヴェトナム戦争に対する反対なんて事実上なかったんですよ。もちろん、市民たちの反戦運動はありました。しかし知識人のなかにはなかったんです。非常に限られた反論しかありませんでした。(p.124)

いまも昔も、人間たいして変わっていない。良心的・進歩的と思えるような知識層はもちろん、ニューヨークタイムスやタイム・ワーナーといったマスメディアの所行をチョムスキーは忘れない。彼は徹底してふつうの人びとに信頼を置く。辺見庸もこれには当惑しているようだった。七〇年代を美化する心性に冷や水である。私たちに伝えられている七〇年代は、比較的単純な対立構図である。だが、知識人たちは異議申し立てをするふつうの人びとの隊列の最後尾にすら立とうとしていなかった。チョムスキーに言わせれば、あとからどんなきれい事を言おうとおまえらみんな信用できないんだよ、となる。

言論の自由はアメリカで、市民の運動の中で獲得されてきたものです。第一次世界大戦当時、バートランド・ラッセルはどこにいたか。刑務所です。アメリカの労働運動指導者、ユージーン・デブスはどこにいたか。刑務所です。彼らがいったい何をしたというのか? 何もしていません。戦争の大儀に疑義を呈しただけです。言論の自由とはそういうことです。今は違いますよ。市民運動が言論の範囲を広げたのです。現在まで自由は保証されてきています。そしてこのまま保障され続けるわけではない。こういう権利は勝ち取られたものです。闘わなければ勝ち取ることはできない。闘うのを忘れてしまえば、権利は失われて行くのです。天与の贈り物のように、降ってくるわけではないのです。(p.133)

チョムスキーの言葉を負っていくと、社会階層の上位を占める資本家、富裕層、知識層たちをすべてまんべんなく疑え、という結論になるような気がする。しかし、チョムスキー自身もまごうことなき知識人の一人である。そこに矛盾を感じないではいられない。そして、チョムスキー自身が大衆を指導・教化しているように見ることもできそうだ。それゆえ、チョムスキーが毛嫌いするリップマンのエリーティズムのほうが、ある意味で潔いような気もする(むろん、エリートたちも間違いばかり繰り返している。ハルバースタムも読まなくちゃ)。

ちなみにリップマンの "The Phantom Public" の邦訳が出ました。邦題は『幻の公衆』(柏書房)。訳者は『制度化される新聞記者』(柏書房)の著者でもある同志社大学講師の河原吉紀さんです。

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コメント

 「メディア・コントロール」は一応、読みました。特に辺見庸さんのインタビューでのチョムスキーさんの発言には刺激されます。その迫力に押されてか、辺見さんが「9.11以降、どこの国でも知識人といわれる人々のメッキがはがれつつあります」と発言しているところで、わたしは考え込んでしまいました。「知識人って?」という例の問題です。
 
 一方、辺見さんは別の著書で、デモ行進の弛緩状態を痛切に嘆いています。「民衆」による「民主主義」的表現行為に対する深い幻滅感です。読んでいて苦しくなるほどです。

 「知識人」も「民衆」も、それと「政治指導者」も、みんな駄目な奈落に落ち込まないために、どうすればいいのかをまず、見定める必要があります。

投稿: schmidt | 2007年9月 6日 (木) 10時29分

Schmidtさん
 コメントをありがとうございます。なんだかすこしペシミスティックですね。ペシミスティックな気持ちは私も十二分に共有していますが、、、
 エリート層が社会や国家をリードしていくべきか、公衆を信じるか----1920年代~30年代にJ.デューイとW.リップマンが論争をしています。これって古くて新しい問題ですよね。
 この論争でぼくが面白いなあと思ったのは、リップマンが“民主主義の問題は、民主主義的な手法では解決できない”と混ぜっ返すようなことを言っていたことです。至言かも。

投稿: 畑仲哲雄 | 2007年9月 6日 (木) 14時15分

 ご指摘の通り、このところ悲観的な気分がずっと続いています。9月6日付の毎日新聞15面で、和光大名誉教授、最首悟さんが40年前の「政治の季節」を振り返っています。だから今、どうなのか、といった視点をあえて欠落させているのだと思うのです。その意味で批評性もへったくれもない、中途半端なメッセージです。
 驚いたことに読んでみて何の抵抗感も感じないのです。ああそうだったの、と。我ながら「ペシミ度」はかなりのものらしいです。

投稿: schmidt | 2007年9月 7日 (金) 11時23分

 ペシミ度、かなり上昇してますね。
 古代ギリシャのデモクラシーは、奴隷制度を前提としていたから成立したという指摘があります。ようするに、「食うに困らない男ども」のキレイごと。
 ただ、衣食足りて礼節を知っているべき現代社会の私たちは、公的な問題に無関心になりがちなのがイタイ。イラクで何が起こっていようと知ったこっちゃない。身近なところで人権が侵害されていてもカンケーねーよ。テレビの政治家たちの激論は、討議の中身よりもパフォーマンスを楽しむだけ。
 リップマンが1920年代において、米国に「観客民主主義」が到来したと洞察していたのはスゴイです。

投稿: 畑仲哲雄 | 2007年9月 7日 (金) 18時35分

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