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2007年10月13日 (土)

池に落ちた犬

古来から、池に落ちた犬を叩くという表現がある。政治的なイデオロギーか、故事成語か、いったいなにが原典なのかは知らないが、いずれにせよ、伊勢の赤福は今、池に落ちた犬のような状態にある。製造日を偽装してJAS法に違反したとして、農水省から行政指導を受けた。途端、連日連夜、叩かれ続けているわけだ。細かいミスや問題はあるかもしれない。ただ、三重県はこれまで赤福に対し「食品衛生法に違反はなく、商品の品質に問題はない」とお墨付きを与えてきたわけで、過去の食品メーカーによる「偽装」とはわけが違う。

食品衛生法には違反せず 県、過去に「問題ない」と伝達 (伊勢新聞 2007/10/13)

わたしが怖いと思うのは二点。一点目は、冷静な事実の確認と問題点の分析よりも、赤福=悪→叩くべし…という短絡的な風潮が蔓延し、多様な言論を前提とするデモクラシーが後退していくことだ。雪印乳業以来、彼らはわたしたち善良な消費者を裏切り、安全を脅かしたという構図はきわめてわかりやすい。街角でマイクを向けられたら、ほとんどの人が似たり寄ったりのことをいうだろう。

第二点目。だいたい、赤福がどのように製造され、出荷されているのかについて、業界関係者や食品保健関係者、深く取材したジャーナリスト、そしておそらく農水省の役人のなかにも知っていた人がいただろう。それを知ったとき自らは声をあげず、国家が犬を池に落とした途端、被害者ヅラ、善人ヅラして、嬉々として犬を棒でひっぱたくことが当たり前になれば、デモクラシーの後退どころか、オーウェル的な恐怖社会だ。たとえば「しにせ落第といわれても…」「“みそぎ”をしないと」といった典型的な言説にどう立ち向かいましょうか。「ルールがあいまいだ」のほうは、まだ良心的に思えます。

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コメント

 ご無沙汰です。多様性、なんでしょうね、重要なのは。特に報道の場合、最低でも賛否双方の視点を備えたフォーマットを意識的に展開する覚悟が必要です。

 最近の報道について受け手として不満を感じるのは、そうした視点の構築に向けたパワーが感じられず、とりあえず見えている部分で勝負しているとしか思えない点です。

 さらに事象を評価する際の素養というか専門性というか、その結果としての読み応えというか、そのあたりが決定的に欠けているように見えるのも気になります。

 一連の食品疑惑に関していえば、政府・行政などの管理監督責任の評価力がなべて低いのは確かなような気がします。「行政責任の追及」は伝統的な報道手法であって、いささかオールドなので、はやらないのかもしれませんが、基本技はやはりきちんと鍛錬しないといけないと思います。

投稿: schmidt | 2007年10月14日 (日) 06時07分

 Schmidtさん、お久しぶりです。
 この手の問題を語る際の厄介さ、たまりませんね。おっしゃるとおり「基本技」はきわめて重要だと思います。国家のお墨付きを得て(過去の事件と同じ手法で)わかりやすい勧善懲悪ストーリーを作ることに馴らされてしまうことは戒めないといけませんね。三重県の場合は知事さんも叩く側に回っていて、なんとも困った事態です。

投稿: 畑仲哲雄 | 2007年10月14日 (日) 09時58分

トラバありがとうございます。
今回の赤福の件は、前回の白い恋人とは全く異なる場合だと思います。食品業界に携わっていたものとして、特に問題点は感じません。もっとヤバい食品は大量に巷にあるのに!!
報道のことについては、最近のテレビ朝日の報道はものすごく意図的なものを感じ、恐怖です。いじめの件の時もいじめた側に立った報道をし、古館伊知郎は小沢民主党をものすごく持ち上げた発言をしています。確かに内容は一理あり、納得できる場合も多いのですが、思考代行業であるテレビがあんなことをしてもいいのでしょうか?

投稿: 健康酢 | 2007年10月15日 (月) 20時46分

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