公衆に期待しない
じぶんたちをじぶんたちで統治するため、わたしたちはデモクラシーという社会のルール/手続きを採用している。政府・国家の暴走を憲法によって規制し、少数の為政者ではなく総体としての国民が統治者として“君臨”するのがデモクラシーの本義。だが、産業が発展し、複雑化の一途をたどり、膨大な人口をかかえる大社会(Great Society)において、公衆(Public)はホンマに“統治者”たりうるだろうか。そんな根源的な問いを、W.リップマンは1920年代に立てていた。『世論』に続いて出版された“The Pnantom Public”は公衆への幻滅を説く。修論執筆時は原著をちょびちょび拾い読みしただけだが、同志社の河崎さんの訳を読み、あらためて考えさせられた。
リップマン,ウォルター(1927=2007)『幻の公衆』河崎吉紀訳、柏書房
Lippmann, Walter (1927) "The Phantom Public", Library of Conservative Thought
リップマンの民衆観はおそろしく悲観的である。『世論』のなかで描いてみせたように、人びとは疑似環境のなかでステレオタイプを通じて世界を知る。大規模に複雑化した社会において、一人の人が触れることができる知識は相対的に小さくなる。いくつもの高度に専門化した諸問題を処理するだけの時間も能力も、人は持ち合わせていない。またそうしたことを期待することは無理難題だし、デモクラティックな社会を生きる「公衆」を教育できるとする人びとこそ、欺瞞ではないか--というような主旨のことをリップマンは論じる。乱暴なまとめ方かもしれないが、一般民衆に期待するよりも、エリート層をしっかり育成すべし、である。
一般市民は今日、後列で何も聞こえない観衆のごとくごとく感じるようになった。彼はいま起こっていることに、どういうわけか影響を受けている自分を知る。規則や規定は絶えず、税金は一年ごとに、戦争はときどき、彼に思い起こさせる。周囲の状況という大きな流れに押し流されていることを。/それでもこれら公的な問題は納得できないままに彼の問題である。そのほとんどは目に見えない。多少なりともそれらが扱われるとして、それは遠い中央で舞台裏から、だれともわからない権力によって処理されている。私人としての彼は、何が行われているのか、だれがそれをしているのか、どこに連れて行かれるのか確かなことはわからない。(p.9-10)
これこそリップマンが考える世界。「大社会」における一人のちっぽけな民衆の世界なのだ。リップマンは、一つひとつ証拠を挙げて論証しているわけでは決してない。「重責ある者」を自認する“エリート層”の心性に訴えかけるポエティックなエッセーにすぎない。証拠を見せてみろと問いかけてもリップマンは答えてはくれない。だが、現実の世界はこのエッセーが描いた通りに展開してきたように見えなくもない。80年ほど前に書かれたエッセーとは思えないほどの力強さを保っている。
公衆がすることは意見の表明ではなく、提案に協力するか反対するかである。(中略)この理論を受け入れるなら、民主政治は人民の直接的な意思表明になりうるという考えを放棄せねばならない。人民が統治しているという考えを捨てねばならない。(中略)人民は絶え間なく指図するのではなく、時折、介入するのであると言わねばならない。(p.43)
彼のこの理論(?)は、マスメディア企業体と読者・聴取者・視聴者との関係に援用することができる。容易にできる。だが、安易に援用して、さも分かったように嘆いてみせることは、「重責ある者」の役目からほど遠いはずだ。民主主義における教育の重要性を説いたJ.デューイーの哲学や、民主主義をして「未完のプロジェクト」と論じたJ.ハーバーマスのような思想家はもとより、パブリック・ジャーナリズムやメディア・リテラシーの実践者、地域情報化の推進者たちは、規範的な公衆像を追い求めることに意義を見出してきたはずだ。
そもそも“エリート層”が「幻の公衆」よりも正しい判断をし、公共のために自己犠牲を厭わなかったかと言えば、大いに疑わしい。ケネディ政権やジョンソン政権の「ベスト&ブライテスト」たちは、アメリカとベトナムの民衆を、泥と炎の戦争に引きずり込んだ張本人である。チョムスキーは、ベトナム戦争に早くから「ノー!」を唱え示威行動を展開したのはエリート層の一角を占める評論家やジャーナリストではなく、名もなき市民たちであったという意味のことを説いている。“進歩的知識人”はおっかなびっくりで最後尾に並んだにすぎないのだ、と。
むろん、リップマンも大衆をバカに扱いして見下しているわけではない。あらゆる人びとが、時と場所、状況によって拘束されているため、その能力におのずと限界ががあることを認めており、N.ルーマンのシステム理論がいうところの「観察」のようなことを述べている。つまり、わたしたちは「公衆」の限界を見極めた上で、身の丈にあった社会作りを考えたほうがよい、ということだ。そこで重要になるのは「輿論」「世論」でしょう、というのがリップマンの中心テーマなのだと思う。
ところで、リップマンのエッセーは、ジャーナリストの文章なので、学術論文にくらべて読みやすい。アナロジーの使い方も秀逸で、それらのいくつかをメモしておく。
政治において多数決の正統性は、その倫理的卓見に見出されない。それは、数の力に文明社会をゆだねる純然たる必要性に見出される。私は投票を兵役や団結、動員と呼んできた。これらは軍事的なメタファーである。当然そうであってよい。私が思うに、多数決に基づく選挙は、歴史的、実践的に昇華され変性した内線、肉体的暴力を伴わない机上の動員だからである。(p.42)
公衆は関心が未熟で断続的であり、はなはだしい違いのみを見分け、目覚めるのに遅く注意をそらすのが速い、団結することで行為するため、考慮に値することは何でも個人的に解釈し、出来事が対立しメロドラマ仕立てになったときにのみ関心を抱くということを、我々は当然と思わねばならない。/公衆は第三幕の途中に到着し最終幕の前に立ち去る。おそらくだれがヒーローでだれが悪役か、判断するのに必要なあいだだけ留まるのだろう。(p.45-46)
最後に、河崎さんが「世論」と「輿論」を訳し分けておられたのは、すばらしいと思います、ほんまに。
リップマン-デューイ論争については、岡田直之の以下の論考がわかりやすい。
岡田直之(2003)「リップマン対デューイ論争の見取り図と意義」岡田・広瀬英彦編『現代メディア社会の諸相』学文社、pp.167-200
また、デューイによるリップマン批判の書とされるのはコレ。いまだ積ん読状態(涙)。
Dewey, John (1927) The Public and its Problems, New York: Holt.
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