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2007年11月 5日 (月)

「冬ソナ」ならぬ「善きソナ」

Thelivesofothersじつに多くの人が「良い映画だった」と評価していた映画を見過ごすのは、たいへんつらい。この映画もそうだった。たしかにズシンと響く内容で、考えさせられることは多い。主人公(ヴィースラー大尉)の感情を抑制した表情のなかに、映画『スペシャリスト』のアイヒマンが微妙に重なった。アイヒマンのなかにもヴィースラーがあり、ヴィースラーのなかにアイヒマンが生きているということだろうか。気がついたことを、未整理のままメモっておきたい。

F.V.ドナースマルク監督『善き人のためのソナタ』(Das Leben der Anderen, The Lives of Others[eng], 2006,独)

とはいえ、読み返したときに何がなんだか分からなくなるので、物語の導入部分をを書いておく。舞台は、1984年の東ベルリンで、東西冷戦下で思想統制が徹底されている社会。アーティストや作家のなかには自由な表現を求めては西に亡命する者もいるが、劇作家のゲオルク・ドライマンは東ドイツに踏みとどまって創作活動を続けている。そんなドライマンを国家保安局シュタージのヴィースラー大尉が監視(盗聴、盗撮)する。

さて以下、映画のできばえ(good!)とは別に、頭に浮かんだことを未整理のまま書き散らかします。

Photo冒頭「1984年、東ベルリン…国民は国家保安省(シュタージ)の監視下にあり、約10万人の協力者と20万人の密告者が、すべてを知ろうとする独裁政権を支えていた」というナレーションがある。東ドイツの人口が1600万人程度だったとすると、かなりの数。こわ。

監視社会の怖さという点でいえば、たしかに1984年当時の東ベルリンはエグかったのだろう。だけど、日本でも1985年夏に日本共産党幹部宅盗聴事件が起こっている(←多くの国民は忘れているかも)。そもそも、いまの日本だってかなりの監視社会である。大勢の人が行き交う商店街、駅の構内はもちろんのこと、一般家庭の玄関先のインタホンにさえカメラが設置されている。国家がコッソリと仕掛けているのではなく、人々が監視すること/監視されることを認め、望んでいるやんか。街角のカメラは「防犯のため必要不可欠」と反論されるかもしれないが、旧東ドイツでも「国防のため」という大きな大義名分があったはずですよ・・・

Das_leben_der_anderen_splash表現の自由を求める作家や芸術家、あるいは学生たちは一般人より高次な精神活動をしていると考えられるので、より強い監視下におかれやすい。権力が恐れるのはわかる。けどね、ベルリンの壁が壊れて20年近く経ったいまも、旧東側社会のほうがましだった主張する人も少なくない(といわれる)。東ドイツ社会に組み込まれたごく普通の人(たとえば『白バラの祈り』に登場したモーアのような社会階層の人)にとって、それほど悪い社会だったのかなあ。よぅわからん。主人公がたどる末路は、ある意味幸せだが別の面からすればたいへん不幸にも思える。

・・・最後のほうで主人公がカール・マルクス書店の周辺を歩く場面がある。ドイツはすでに統一されており、街角にはひどい落書きがあふれている。これがなんとも印象的。パキっと割り切らないところが、この映画の味なのでしょう。

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