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2008年1月 3日 (木)

三つの社会階層

1984大学院の知人Kさんから「読むべし」と勧められていた本をようやく読了。ジョージ・オーウェル『1984年』。映画が公開された1985年~86年に本を買ったものの途中まで読んで投げ出していた。20年数ぶり。当時のじぶんには興味関心のなかったことが、いまあらためて面白く感じられた。面白かったのは権力に対する眼差し。小説の中で登場する発禁書「例の本」の文章がたいへん洞察力に富み、示唆的なのだ。もう一点、考えさせられたのは、再教育された主人公の世界観。大規模で複雑化した社会を効率的に統治するには、こうするしかないのか、世の中お金ではなく権力なのだろうか?

ジョージ・オーウェル(1972)『1984年』新庄哲夫訳、ハヤカワ文庫(原題: Nineteen Eighty-Four, 1948)

小説の中に出てくる「例の本」より抜粋

印刷技術の発見は世論操作をより容易なものにし、映画とラジオの出現はその操作方法を更に発展させた。テレビの発達に伴い、その技術的進歩が同一セットによる同時受信、発信を可能ならしめると、ついに私的な個人生活は終わりを告げるに到った。(p.266)
一九五〇年代と六〇年代の革命期を経た後で社会は例のごとく上層、中層、下層の三階層に再編された。ところが新しい上層集団は、そのあらゆる先達とは似ず、本能に基づいて行動しなかった許りか、自己の地位を防衛するのに必要な手段を心得ていた。遙か以前から容認されていた点だが、少数独裁制にとって唯一の安全な基盤は集産主義であった。財貨と特権は共有制にした時、最も簡単に防衛される。(p.266)
支配集団が権力の座から滑り落ちるには四つの途しかない。外国勢力に征服されるか、無能な統治が民衆を反抗に駆り立てるか、強力で不平満々の中間集団が権力の座に就くことを許すか、自らの統治の自信と意欲を喪失するかである。(中略)第二要因の危機も又、単なる理論的なものに過ぎぬ。民衆は決して反逆するものではないし、また抑圧されているという唯それだけの理由により決して反逆するものではない。確かに民衆は比較の基準をもつことが許されない限り、抑圧されているか否かという点にも気づかぬ。(中略)唯一の真の危機とは有能で、仕事も与えられておらぬ権力に飢えた人々の新集団が分離、独立することであり、自らの陣営内に自由主義と懐疑の精神が成長することである。換言すれば教育の問題である。(pp.266-267)
「例の本」はビッグブラザー打倒を叫ぶ書ではなく、なぜかBBと同じ世界観を肯定しつつ、、権力構造を分析している。つまり、社会の85%を占めるプロレ階級などというものは、社会を俯瞰したり、自己統治をしたりする能力にも意欲にも欠ける奴隷にすぎず、戦争などの適度な抑圧を与えておけば満ち足りる存在であって、もし、有能な人物がこの階級から生まれたときは抹殺するか、ごくまれに支配者側に取り込めばよいという考えを否定していない。権力維持に必要なことは、上層階級が中層階級を合目的に稼働させ続けること。このため中層階級はプロレ階級に比べると、より過酷な思想統制を受ける。(おそらく上層階層は、さらなる恐怖社会の中で生きていることも想像される)

肉体的および精神的ないまわしい拷問によって再教育された主人公は、尋問者から「われわれが“なぜ”権力にしがみついているのか説明してくれないかね? われわれの動機は一体なんだろう? われわれはなぜ権力を望むのだろうか。さあ、言ってみたまえ」と詰問されたときの思考内容も興味深い。

彼のいわんとするところはすでに察しがついていた。党は権力のために権力を求めたのではなくて、大多数のためにそうしただけに過ぎないこと、民衆はか弱く、卑屈な人種であって自由に耐えられないし、真実を直視し得ないから、彼らよりも強力な集団によって支配し、組織的にだまされねばならないこと、人間にとっての選択は自由か幸福かであり、その大多数にとっては幸福が遙かにましなこと、党は弱者にとって永遠の保護者であり、善をもたらすために悪を行い、他者のために自己の幸福を犠牲にする献身的な一派であるということだ。(p.343)

上層階層に仕える中層階層が、心の底から党(組織)に忠誠を誓えば、上層階級に取りたててもらえるし長生きできる。盲信さえすればとても楽しい党員生活が可能かも知れない。しかし、ちょっと見方を変えれば、そんな人生はプロレ階級よりもキツイものとなる。自由を得ようとするあまり、生きづらさのようなものを感じ始めたら、あとは地獄が待っているのみ。いつも無理して取り繕ったような忠誠を口にしなければならない。そんな精神状態で内心の自由を守り続けるのはきわめて過酷だ。主人公はプロレ階級の図太さに希望を見出そうとするが、思想警察が跋扈し、階層ごとに分断統治された1984年のオセアニア国には、階層を超えて人々がコミュニケートする社会空間がない。本当にキツイ。

この小説では、オセアニア国の下級官僚の視点で語られているが、世界は閉じられており、主人公を上層階層や下層階層にして書かれたとしても、きっと救いはないだろうし、オセアニア国と拮抗するユーラシア国やイースタシア国においても統治機構は大筋で同じであることが示唆されていて、すべての人に逃げ場はない。これって、ゴールドウィン『蝿の王』で子供同士の戦争から救われた少年たちを待ち受けていたのが、戦時下のイギリスであり結局、子供たちは殺し合い空間から逃れることができないという世界観と同じく、とてもペシミスティックなものだ。

オーウェルが描く未来社会は、BBがテレスクリーンから人民を監視するという“規律訓練型”の仕掛けが強調されるが、本当に怖いのはそうした装置や技術ではなく、昔ながらのプロパガンダによって無知と戦争が充満する社会が作られ、その社会体制の維持だけが自己目的化していることだ。BBはいう。「戦争は平和であり、服従は自由であり、無知は力である」と。自由や懐疑の精神は人に心の平和を乱し、不自由を与え、力を奪うのである。

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