世論と世間
大学院の基礎ゼミで、世論研究について発表したことがある。まだ入学して間もないころのことで、右も左もよくわかっていなかったため、ドはずれたコメントをしてスルーされた。どんなコメントかというと、「世論なるものと世間なるものがどこかで関連しているような気がする」というものだ。たしかに社会科学の領域で「世間」に言及できるのは、阿部謹也先生と阿部先生の問いを真摯に受け止めた研究者たちであって、初学者未満のわたしごときに扱えるコトバではなかった。ただ、それでもやはり、世論と世間とはどこかでつながっているという感覚はぬぐい去れないでいた。
佐藤直樹 (2008) 『暴走する「世間」-世間のオキテを解析する(木星叢書)』 バジリコ
阿部謹也 (1995) 『「世間」とは何か』 講談社現代新書
世論をちょっぴり振り返る。
「世論」というコトバは古代中国に源流あったが、近代以降はオピニオンを興していかんとするときに「輿論(よろん)」という語が使われた。ウィキペディアによると、佐藤卓己先生が「理性的討議による市民の合意」と説明しているようだが、ま、ポジティブな用いられ方をしていたわけだ。だが残念なことに、この「輿」という漢字が当用漢字に含めてもらえず「世論」と書き換えられた。
ここで問題が生じた。日本にはもともと「輿論」のほかに「世論(せろん)」というコトバがあったのである。「世論」には、理性に乏しい民たちの困った多数意見というネガティブな意味で用いられることも少なくなく、政治家たちは「世論(せろん)に流されることなく」というようなセリフをたびたび使っていた(小泉元首相も使っていた)。このため、元輿論の世論(よろん)と、世のたわごとを含む世論(せろん)が併用されてきた。そんなところへ、科学の装いをまとった「世論調査」が彗星のごとく現れた。
世論調査は、人々に理性があろうとなかろうと、愚かな意見が多数を占めようと占めまいと関係がない。価値などどうでもよくて、いわば民意の数値化である。(ただ、この世論調査もやり方によって数値を誘導するなど操作性が高くリテラシーが必要とされる)
それはさておき、わたしが、ぼんやりと世論と世間とが地続きのような気がしたことを、もうすこしカシコびっちに言えば、世論形成過程に「世間のオキテ」が入り込んでいるのではないか、という表現になる。
そこへ最近、世間学会のメンバーである佐藤直樹さんのエッセーを読み、世論には2つあるのではないかという思いを抱いた。2つとひゃ、積極的(proactive)な世論と消極的(passive)な世論。このうち消極的な世論のほうは、世間のオキテによって形成されているのではないかという疑問がわいた。
世論調査の質問票や調査者に対して、明確な意見をパキっと述べたり、操作性を指摘して調査者を叱りつけたりする人たちがいる一方で、なんとなく場の空気に流されて答えたり、多数者が答えるであろう意見を想定して同調する回答をしたりする人もいるのではないか。後者の人たちの「世論」こそ、「世間」が決めている言説だ。
べつに根拠があるわけではないが、世論形成時の人々の意識を腑分けしていくと、世論と世間の関連を説明できそうな気がする。惜しむらくは、当時の基礎ゼミでこういうコメントをすることができなかったことだ。
いずれどこかでクォートするためのメモ 2008年3月30日
▽踏み字について
踏み字?/なんだか時代錯誤のようにも思えるが、いったいそんなものに、本当に自白させる効果があるのだろうか。/おそらく、「踏み字」がウソの自白を強要するのに効果があるとすれば、それは「世間」の「呪術性」の原理によって、書かれた文字が呪術的な意味を持っているからである。そうでないかぎり、そこにあるのは物質的にはたんなる紙やインクにすぎないから、、意味を持たない。文字に呪術的な意味があるからこそ、それを踏みつけることは、それをケガす厚意となるからである。(佐藤 2008:157)
▽公共性との関係について
西欧では、パブリックとしての「公共性」という概念は、オフィシャルとしての政府や国家とはまったく関係のないところから生まれたのである。/ところが日本では、「公」は「おおやけ」として、バブリックの意味のほかに、国や官の意味をもち、このふたつが区別されない。「公共」という言葉は「公共企業」「公共工事」「公共建築」「公共投資」「公共団体」など、地方自治体や国家の意味でつかわれる場合が多い。国や官と明確に区別された、国家や法に対抗しうるような、市民的な公共性をあらわす言葉がないのだ。(佐藤 2008:207)
公共性という概念が「世間」に似ているのは、ある種の社会的強制力をもつからである。しかし「世間」が公共性と異なるのは、「世間」がつねにウチとソトという区別をおこない、「世間」の内部の原理がソトに及ばないことである。(中略)「世間」のソトとみなされる富士山の頂上では、この「キレイにする」「ゴミを捨てない」という倫理・道徳は通用しない。(中略)居酒屋でグループで飲むと、まわりの迷惑も顧みず、死ぬほどうるさくなるのもこのせいだ。(佐藤 2008:210)
公共性と「世間」が異なるのは、公共性にはウチとソトとの区別が存在しないことである。つまり公共性概念は、すべての「世間」に横断的に通用する原理としてある。いいかえれば、公共性概念に「外部」は存在しない。しかし日本では「世間」しか存在しないために、複数の「世間」に横断的に通用するような倫理・道徳が存在しない。(佐藤 2008:213)
個人的な疑問-備忘録 2008年3月30日
ただですねえ、ニッポンの異様さを説明する道具立てとして「世間」を引き合いに出してもですねえ、じゃあ、どうしろというのですかという疑問が払拭できないのですよ。「世間」まみれのダメダメ日本のなかで、一生懸命になって公共性を築き、市民を育成しようとしている人たちは、必ずしもキリスト者ではないと思うのですよ。
互酬性が幅を利かせる思想として、西欧にコミュニタリアンがあるじゃないですか。コミュニティを運営しているのは、必ずしも civic virtue が陶冶された規範的公民だとは思えないんですよね。
ああ、なんか負け惜しみのような疑問だなあ。くやしい。世間学会に入ろかな。
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