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2008年5月27日 (火)

『ブリッジ』の語りづらさ

51eexvmndlこれを観た後しばらくの間、あれこれ思いをめぐらせることはやめておこうと思っていた。いったん忘れて、運良く思い出したら、その時あらためて考えてみようと。そしてきょう、ふと思い出してしまった。この映画は自殺者と自殺未遂者、その関係者たちのドキュメンタリーである。ドキュメンタリー作品としての完成度には疑問が残る。だが、、、、

エリック・スティール監督 『ブリッジ』 (原題:The Bridge, 米, 2006)

サンフランシスコの観光名所として知られるゴールデンゲートブリッジから飛び降り自殺するは2004年の1年間で24人。スティール監督は24人が飛び降りる場面を望遠レンズで撮り、未遂者や既遂者の遺族や友人たちを訪ねてインタビューを行った。監督に対し、ただ撮るだけで、なぜ助けなかったのかという批判が多数寄せられたという。むろんスティール監督は喜んで撮っていたわけではなく、朝日新聞のインタビュー記事によればきちんと通報もしており、6人の自殺を止めたという。そうした表面的な批判よりも、むしろ自殺者が後を絶たないという私たちの社会のリアリティから目をそらすなというのがスティール監督のメッセージのように受け止められなくもない。だが、そんなものだけではあるまい。

New York Timesの映画評も指摘しているとおり、自殺をしようとする者の多くが極度の鬱などメンタルヘルス上の問題を抱えていたり、統合失調症であったりするにも関わらず、映画のなかには予防に観点をおいた臨床医学者は登場しておらず、形而上学的な問いを立てるにとどまっている。NYT映画評も、映画に登場した人物の以下のセリフを紹介して終わっている。

“Some people say the body is a temple. He thought his body was a prison. In his mind, he knew he was loved, that he had everything and could do anything. And yet he felt trapped, and that was the only way he could get free.”

生きていられないくらい苦しんでいる人が、最後の逃避先としての自死を選ぼうとするとき、その自由を奪うことができるのか―という問いは、ここではいったんおく。それが「自由」な意志にもとづく選択であるのか、ただの妄想なのかどうかについても、無理に一般論として答えを出さないでおく。わたしがもっとも重要だと思うのは、このテーマについての語りづらさである。

なぜ語りづらいのか。ひとつには、監督のメッセージ性が強くないことだ。たんに観光名所が自殺の名所であることを知らしめようとしているにすぎない悪趣味な作品――というような難癖を引き受ける理由はどこにあるのだろう。監督自身が聴くことに徹し、ほとんどなにも語ろうとしていない。

語りづらいもう一つの理由は、無責任なことを書いて新たな自殺を誘発したくない→つまり責任を負いたくないという心理がわたしにも働いてしまうのである。日本の自殺率はアメリカの比ではないくらい高い。そのことを意識しないでは決していられない。

そういうふうに考えれば、このドキュメンタリーは単純な Sender – Receiver モデルから作者のメッセージを評価するか否定するかという読み解き方をするのは的はずれになる。そうではなくて、受け手の心の底に沈殿するなにかを攪乱し、そのことを引き受けたうえで討議をする素材として適当かどうかという評価をすべきなのだ。”The Bridge” 公式サイトの掲示板には、わたしが確認しただけで519件のメッセージが書き込まれている。こうした書き込みをも含めて一つの作品だと考えれば、スティール監督がはたした社会的な役割は貴重に思えてくる。

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