『イン・ディス・ワールド』にみるliveとevil
ペシャワールの難民キャンプを出発した16歳のアフガン少年が6400km離れたロンドンに到着するまでを描いた『イン・ディス・ワールド』を、本郷壁際ロースクールの映研で鑑賞し、“お腹いっぱい”な気持ちになった。難民の日(6・20)にちなんだ上映で、難民との交流会まで企画されていた。企画者に多謝。でも、I先生が来られていたのにロー生の参加は多くなかった。わたしもガッカンHゼミとMゼミのメーリスでも案内したが、足を運んでくれたのは非学生の我が師ひとりだった。
マイケル・ウィンターボトム監督 『イン・ディス・ワールド』 (原題:”In This World”, 英、2002)
鷲田清一 (1999) 『「聴く」ことの力-臨床哲学試論』 阪急コミュニケーションズ
「難民」が世界中にどれくらいいるのか。そのうちどれくらいがアジアにいて、アジアの中でも、この映画の主人公がいるエリアにはどれくらいいるのか。そんな数字が冒頭に示された後、ジャマールたちの怒濤の数ヶ月が描かれる。たぶん「インディー・ジョーンズ」とか「ランボー」とかよりもハラハラさせられると思う。
カメラは、難民少年ジャマールに徹底的に寄り添い、ジャマールの目から見た世界を描き続ける。ジャマールにとって生きることは厄災そのものに映るが、ジャマール自身が「厄災」と認識しているかどうかは分からない。そんなことを考えている余裕などないだろう。ちなみに、主人公のジャマール自身が難民で、映画を撮ったあと英国で難民申請して却下された。
ウィンターボトムが監督は『ひかりのまち』(1999) や『ウェルカム・トゥ・サラエボ』(1997) を撮っていて、しかも、わたしと同い年! 頭が下がります、を通り越して、落ち込んでしまうのですよ。
いまゼミで読んでいる鷲田清一『「聴く」ことの力』(阪急コミュニケーションズ)のなかで、V.フランクルの論考「ホモ・パティエンス」(1951)が紹介されているので、備忘録として転記しておく。
(フランクルは)理性的な判断のひとである前に、苦悩を引き受けるひとであれ。そう静謐に語り出している。人間という存在はそのもっとも深いところでは、「受難」(passion)であり、つまりは「苦しむこと」(Leidewesen)ではなかったかというフランクルの語呂合わせをまねていえば、生きる(live)ことそのことがしばしば災い(evil)であるように、だ。(p.234)
難民として生きることは、もっとも分かりやすい形で災い(evil)を現している。さらにいえば、認定難民として保護されない“難民”は、さらなる災いを表している。「インディー・ジョーンズ」とか「ランボー」とかを観て楽しむことを否定するわけではないけれど、、、、
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