釜山港じゃなくトクヴィルへ帰れ(備忘録)
その昔、チョー・ヨンピルは「釜山港へ帰れ」を歌ってくれたが、I先生は講義で「トクヴィルに帰れ」と話した。マスメディアの功罪のうち罪が目立つようになったときの対応策を考えるとき、一度は原点に立ち返ろう――原点といえば、やはりトクヴィル。I先生は、毒をもって毒を制するというようなことを話されていたが、ようするに小さな毒を吐くメディアの数が膨大にあれば、強烈な毒を吐く少数のメディアの存在感が薄まるということだ。
トクヴィル (2005) 『アメリカのデモクラシー 第一巻 (下) 』 松本礼二訳、岩波文庫
井上達夫 (2003) 『法という企て』 東京大学出版会
建国期のアメリカ大陸を旅したアレクシス・ド・トクヴィルは、当時のヨーロッパで危険視されていたデモクラシーが、どのように実践されているのかについて大著を残した。その一つが"Democracy in America"で、王も貴族もいない広大な大陸でデモクラシーの実験をはじめたアメリカ人の政治・行政・司法・経済・文化・暮らしなどについて、ときに眉をひそめ、ときに感激しながら克明に記している。リップマンのパブリック三部作が1920~30年代の産業化・巨大化するアメリカのデモクラシーの問題をアメリカ白人の視線でえぐっているのに対し、トクヴィルは草創期の頼りなげなデモクラシー国家について、気位の高いフランス貴族がどこか見下すような視座から記している。
トクヴィルが岩波文庫(下)の第2部第3章「合衆国における出版の自由」で言っているのをわたし流に乱暴にまとめると、
プレスの在り方として、放縦と隷従の中間は存在しない(一見、中間に見えても結局どちらかに収まっているということ)
アメリカではプレスが隷従せず独立している利点は大きく、少々の弊害には目をつむってもよいと考えられている
放縦を抑制するにはプレス同士の競争による相互チェックがよい――したがってプレスは多いほどよい
フランスのプレスは、政府とおなじく中央集権的で、少数のオピニオンが幅をきかせているが、アメリカのプレスは全土に分散して一つひとつは貧弱で非力で内容もくっだらない
しかし、それでもまあ、多種多様なプレスが各地にあることで広大な土地に住むアメリカ人に共通の問題が共有される
I先生によれば、プレスの扇情効果を中和させる唯一の手段は、その数を増やして競争させることだ――ということについて、トクヴィルは「アメリカにおける政治学の公理」と呼んでいるそうだ。(I先生はトクヴィルの議論を二大テーゼとして以下の2つを挙げる。すなわち、①メディアの自由を保障するためには、放縦化の悪弊を受忍する必要がある-なぜなら、メディアが権力からの独立していることのほうが大きなメリットがあるから、②放縦化の悪弊の是正は、メディア内部での競争による相互的なチェック・アンド・バランスに任せるべきである[井上 2003: 213])
I先生が『法という企て』のなかで展開しているのは新聞紙発行ではなく地上波テレビ放送のあり方についてのH先生批判。わたしの研究にとってさしあたり重要なのは、新聞メディアなので、I先生とH先生の論争については、ここではおいておく。
私の関心事は、トクヴィルが提示した「アメリカにおける政治学の公理」である、プレスの競争促進による相互チェック&バランスのテーゼを今日の日本に持ち込めるかどうかだ。いま中央集権的な少数のプレスによって、言説の社会空間が形成されるとしよう。それが放縦化したとき、プレスが間違ったときの悪影響は計り知れなく大きい。それが隷従に陥ったときは、デモクラシーは回復不能のダメージを被る。たとえば、1930年代の「新聞統合」がそうであった。
日本の新聞統合は、少数の有力全国紙と県単位ごとの有力地方紙が法によって作られた。この布陣が戦後もなぜか温存され、今日のどこか平板な言説空間を維持していることをわたしたちは体験的に知っている。新規参入を実質的に阻んできたことの罪が重いことも誰もが感じている。隷従よりも放縦を優先するべきという立場に立てば、市場の独占や寡占を排除しなければならないはずだ。ましてや、メディア・コングロマリット化は阻止せねばならない。好き勝手にものを言ってもよいかわり、自立して切磋琢磨しなさいということになろう。
しかし、たとえば独禁法を強化することで日本のメディアの影響力が抑制されれば、得をするのは権力だけではないかという懸念も生じる。また、日本のメディア市場が脆弱になれば、海外のメディア・コングロマリットに飲み込まれてしまうのではないかという危惧も成り立つだろう。なによりも、権力がメディアの在り方を誘導しようとすれば、新聞統合の変わらない操作性が入り込む。
I先生が今日の新聞メディアについてどのようにお考えなのか、よくわからないが、すくなくとも副指導のM先生は『メディア・ビオトープ』のなかで生態系のアナロジーを用いながら、多様なメディア環境が望ましいと指摘している。権力との関係を意識したトクヴィルの議論とは位相の違うとらえ方ではあるが…… 私としては激しく同意してしまう。
第二次大戦前、日本には1200紙以上の新聞紙が存在した。いくつもの小さな新聞紙がつくるいくつもの小さな言説空間が存在する世界は、けっして夢物語ではなく、現実に存在した。そうしたメディア環境を望むか望まないかは、政治権力が勝手に決めることではないし、特定の“良識ある”業界団体勝手に合意して決めることでもない。では、だれがどのように決めるのか。そのことをもっともラジカルに、もっとも地道に問い直しているのが、メディア・リテラシー実践ではないだろうか、などと思ったりする。勝手な思いこみだろうか。
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