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2008年7月31日 (木)

「弱者」探しが止まらない?

「左翼」が今日的な社会的弱者である非典型労働者から頼りにされない理由について、大澤真幸さんが「中日(東京)新聞」の論壇時評(2008年7月29日)のなかで、古くて新しい視座を提示している。大澤さんは、具体的な「左翼」の名称を挙げているわけではないが、左翼が弱者に同情することに自己陶酔しがちな傾向は、なにもロスジェネ問題に始まった現象ではなく、つねに問われ続けてきたはずである。その「問い」から目を閉ざした欺瞞的な左翼もいるし、「問い」を問いとして受け止める能力を持たなかった左翼がいるのも事実だ。

大澤真幸 「左翼はなぜ勝てないのか (上) 自己陶酔に映る弱者への 「同情」 」 『東京新聞』2007年7月29日付 夕刊 第9面

人権系の左翼は、混沌とした社会の中から幾通りもの「弱者」を見つけてきて、彼ら彼女が置かれた状況を可視化し、構造をあぶり出し、弱者を支援してきた。それを駆動していたもののなかに、左翼勢力の拡大という思惑もあるだろうが、むしろ弱者に対する素朴な同情心があったとしても不思議ではない。問題の所在は左翼の「素朴な同情心」ではなく、同情によって自己陶酔している左翼の姿が、「弱者」から欺瞞に映るということだ。

左翼は、「戦争被害者、在日外国人、女性、フリーター……」といった弱者を次々と見つけ出し、それら弱者に同情し、同時に弱者差別を批判する。問題は、こうした弱者への同情が、常に「安全な場所」からのみ発せられているということである。自分自身は弱者の渦中にはいない限りで、つまり弱者に真に近づかない限りで、弱者の味方になろう、というわけである。「同情」が、むしろ、弱者との間の安全な距離を保障している。左翼は、弱者を「応援」することで、自分自身の善き心、麗しい魂を確認し、ナルシスティックに陶酔しているように見えるのだ。

ここでいう「左翼」とは特定政党や党派を指しているわけではない。「進歩的」などと評される大学の研究者やジャーナリスト、評論家、あるいは市民運動的なことをしている人たちまでをも含む広義の左翼と考えられる。

かつて人権問題を担当したとき、わたしも同じ問題に直面した。弱者を探しを嬉々としておこない、正義感ぶった告発記事を書く--そんな先輩記者たちの欺瞞性に嫌気がさした。ゆえに、弱者探しが止まらない左翼の性行を「ほとんど病気」である内観する『ロスジェネ』の大澤信亮に共鳴する部分も多い。視点を変え、非典型労働者の問題を社会の「暴力」の結果として捉え直し、カント的な理性が陥る危うさのなかに、左翼を再定位することができるのではないか。以下は思いつきの妄想メモ。

たとえばニーチェは、善悪を超えた「力への意思」を、生の根源と肯定した。弱者救済を謳うキリスト教的な善悪観のなかに、人々を奴隷化してしまうという危うさが潜んでいる。そんな暴力観の延長線上にいるフーコーも、暴力を今日の社会のなかで見つめなおした。暴力を禁止するための暴力が巧妙に行使されていることを、「監獄」や「狂気」などに関する考察から構造化して暴いてみせた(?って言えるかな?)。残念ながら私たちはカントが理想化する「理性」に乏しく、社会は雑多でそれほど美しくない。

「暴力への意思」によって生み出されるエネルギーが横溢する社会は、必然的に「弱者」を生み出す。社会が複雑化すれば、さまざまな暴力を抑圧するテクノロジーも高度化し、「弱者」を踏みつけて抑圧している装置は見えにくくなり、「弱者」探しをしてナルシズムに酔わんとする心性が暴力として作動していることに無自覚になる。安直なヒューマニズムや“特権左翼”の地平からは見えない暴力がいくつもあることを、まず直視しなければ、なにも始まらない。

左翼活動家や左翼ジャーナリストが、じぶんこそが弱者に救いをもたらす聖職者だというような認識を持つとき、生け贄としての「弱者」は供給され続けなければならず、弱者探しが自己目的化する。それはまごうことなき暴力であり、今日の左翼批判のなかには、暴力への抵抗が含意されているのかも。非典型労働者の問題は、マルクス史観に基づく再配分の問題から解きほぐす契機をもちながらも、「承認の政治」において大きな勘違いをしている。それが今日の左翼かもしれない。

さしあたり、左翼が弱者という神の代弁者であるという妄想を捨て、「弱者」とされる当事者たちに政治への参加を促すところから再出発するしかない。その先に、非暴力的な反政治があるのか、あるいは新たな弱者を生み出す、まだ見ぬ巧妙な権力テクノロジーがあるのか、よく分からないが。


2008年8月2日追記

中日(東京)新聞の論壇時評は(上)が出たあと、しばらくして(下)が掲載される。毎回、(下)の展開を予測するのが楽しみひとつなのだが、今回の結論部分についての感想は、「なるほど。そうか」→「でも、うーむ」→「やっぱり、そうか…」という感じ。

左翼を困難に陥れている究極の原因は、結局、資本主義を上回る実効的な普遍性を提起できていないからである。(中略) 普通、資本主義という経済は、民主的な体制とともにあるときだけ、自然で整合的に機能すると考えられてきた。しかし、中国の現状が教えることは、資本主義は、権威主義的な権力と結合しても問題なく動く機械だということだ。資本主義の普遍性は民主主義のそれを凌駕しているのである。この不気味な現実に、どう対抗したらよいのか。

これが大澤コラムの結論部分。なるほど、資本主義の強みは、政治体制が民主的/独裁的の別なく一定の機能しうる普遍性を有しているということだ。左翼の論理が、どこかウェットである種のヒューマニティを含んでいるのに対し、資本の論理はドライだし人間性などかまっていない。大澤さんは「機械」と表現しているが、それはもはや、正義や善の構想、公正な再分配……などについて悩み、葛藤し、格闘する政治思想でも、マルクスがいう妖怪でもなく、集団生活をする種を繁栄させるため、本能に仕組まれたナノプローブのようなものなのかもしれない。

ソ連の消滅によって、「資本主義 vs. 共産主義」という二項対立的な世界観は消えた。この二項対立がリアリティをもっていたとき、資本主義陣営にいた(いる)私たちは、それが自由や所有、民主主義といったものとセットになっているからこそうまくいくという、いまから思えばなんの根拠もない妄想を抱いていた。いや、抱かされていた。左翼思想は資本主義への異議申し立てをしつつ成長したが、その思想そのものが資本主義のもつ普遍性に愛着をもつかぎり、〈親殺し〉はできなかったということか。

大澤さんは中段でこう記している。

非典型労働者が増大するこの機に、なぜ左翼が支持を拡張できないのか、が疑問であった。左翼を特徴づけるのは、普遍性への愛着である。だが、事態を複雑なものにしているのは、普遍性を真に社会的に実効的なものにした動因は、資本主義にこそある、という事実である。資本主義的な市場では、すべての事物が、使用価値としての多様性を超えて、貨幣で表現できるような抽象的な価値をもつ。同様に、すべての人が、具体的な個性を超えて、抽象的な労働力の主体としては同一である。こうした現実を背景にしてこそ、すべての個人は、抽象的な人権の主体としては平等だという普遍的な理念も説得力をもつ。
 今日、フリーターやニートの自尊心を傷つけているいるのは、彼らが、いつでも、誰とでも交換可能な小さな部品に過ぎない、という扱いを受けるからである。だが、これは、資本主義的な普遍化の作用のきわめて素直な実現にほかならない。左翼を困難に陥れている究極の原因は、結局、資本主義を上回る実効的な普遍性を提起できていないからである。

今日の世界を規定しているものとして、I先生は、市場、国家、共同体を挙げる(←「秩序のトゥリアーデ」というらしい)。そうであるとすれば(私はかなり納得するが)、そろそろ資本主義を「主義」の概念から解き放ち、「市場」という平等主義的(あるいは功利主義的?)普遍性を志向するシステムとして受けとめてもよいかも。左翼はキャピタリズムとかいう意志を持つ妖怪と対決する殉教者気分に浸るのではなく、市場の暴走や病気を抑制するためのシステムとして、国家や共同体といったものを動員して秩序のバランスを取るほうがよいのかもしれない。

新しいコミュニタリアンはどうよ。

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