共同体と多文化と『その名にちなんで』
異なった宗教的・文化的背景をもつ人々がアメリカに移住したことで直面する葛藤の数々。それがすぐれた小説を生み出す。外国人作家たちこそが、元気がないと言われるアメリカ現代文学の救世主かもしれない。小説ばかりではない。それはきっと映画製作においても言える。そんな確信をいだかせてくれたのがジュンパ・ラヒリ原作の映画『その名にちなんで』である。
ミーラー・ナーイル監督 『その名にちなんで』 (原題:"The Namesake" 2006、米・印 )
ジュンパ・ラヒリ (2004) 『その名にちなんで』 原題:"The Namesake" 、新潮クレスト・ブックス
ジュンパ・ラヒリ (2000) 『停電の夜に』 新潮クレスト・ブックス
『その名にちなんで』で感じたのはコミュニティという基盤のもつ意味。コルカタ(カルカッタ)で見合い結婚後に渡米したヒロインのアシマが、同じくインド人の研究者である夫の愛に包まれながらも、NYで出産と育児を経験する。もし、彼女が故郷のコミュニティにいたならば、地縁血縁の人々から有形無形の援助や知恵を得られたはず。いわゆる一世移民の苦労は尋常ではない。人は、土地Aから土地Bに移動した人間Cではなく、コルカタの地縁血縁の人間関係の産物であり、アイデンティティはコミュニティに基づいている。
アシマたちのように外国に根を生やしたベンガル人たちは、その土地々々で文化伝統を軸に集い、コミュニティを作る。相互に訪問し、扶助し合い、故郷との結びつきを確認する。だが、アシマの息子・ゴーゴリのような二世移民は、ベンガルと西洋市民社会の股裂きのなかを生きる。そして多文化のなかでアイデンティティを模索する。物語の視点はアシマからゴーゴリへと移行する。ゴーゴリは、自分の名前が、なぜロシア文学者と同じなのかという秘密について、父から告げられる。ネタバレになるので、内容にはこれ以上触れない。
藤原保信先生がいうように、人間というものが自己解釈的かつ物語的な存在であり、小さなナラティブの関わり合いの中から共通の善を知る。善は、地域や民族固有のもので他者には理解不能なものではなく、じつは世界に広がりをもつ普遍的な価値である--そんなことを考えさせてくれるいい作品でした。(小説は小川高義さんの訳がすばらしい)
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コメント
映画はみていないのですが、ジュンパ・ラヒリは大好きです。人々のささやかないとなみを、大きなスケールの中から描くことのできる人だと思います。
かつてH先生が、「コミュニティという概念を(民族という問題を抜きにして)安易につかってはいけない」とおっしゃったことも思い出すのでした。
投稿: brary | 2008年8月21日 (木) 17時51分
>braryさん
ラヒリさん最高ですね。
ところで、H先生って、和菓子…もとい、わが師でしょうか。民族ですか、なるほど。
投稿: 畑仲哲雄 | 2008年8月21日 (木) 23時40分
ええと、初代わが師です。(民族がカッコにはいっているのは、わたしがそうききかえしたからです。)
投稿: brary | 2008年8月22日 (金) 07時24分
なるほど、braryさんの初代わが師ですか!(つーこと、ぼくにとって、師の師だ)
投稿: 畑仲哲雄 | 2008年8月22日 (金) 08時00分