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2008年9月 2日 (火)

「他人事」を嗤う「観客」

リベラル・デモクラシーやら、デリベラティブ・デモクラシーに関する文献を読み返し、『論座』で川出良枝先生が書かれた「砂のように孤立化していく個人をどう救うか/デモクラシーと集団を考える」などを味わっていたところへ、福田首相が退陣会見で記者の質問に逆切れする場面を見せつけられ、ゲンナリした。「わたしは自分自身を客観的に見ることはできる。あなたとは違う」という最後の言葉は、質問した記者だけではなく、福田のこれまでの言動について「他人事のように聞こえる」という印象を抱いている国民に対して浴びせかけられたと思う。

田村哲樹 (2008) 『熟議の理由-民主主義の政治理論』 勁草書房
川出良枝 (2008) 「砂のように孤立化していく個人をどう救うか」『論座』10月,通巻161、pp.20-26

ヤメ蚊さんがyoutubeの動画を紹介しているので、そこからクォートすると、福田逆切れ発言は以下の通り。

記者 あのお、一般に総理の会見がですねえ、国民にはちょっと他人事のように聞こえるという話がよくされておりました。きょうの退陣会見を聞いていても、率直にそのような印象を持つのです。安倍総理に引き続く形でこのようなヤメ方になったことについてですね、自民党を中心とする現在の政権に与える影響というものをどんなふうにお考えでしょうか。
福田 現在の自民党、公明党政権ですか? えー、それはね、順調にいけばいいですよ。これに越したことはない。しかし、わたくしの、先を見通す眼の中には、その、決して順調ではない、可能性がある。そしてまた、その状況の中で、不測の事態に陥ってはいけない。まあ、そういうことも考えました。まあ、他人事のようにとあなたおっしゃったけどね、わたくしはじぶん自身を客観的に見ることはできるんです、あなたとは違うんです。まあ、そういうことも併せ考えていただければと思います。

質問への応答も支離滅裂だし、逆切れぶりもみっともないことこの上ない。「客観的にじぶん自身を見る」ことができるのであれば、あのような受け答えはしないだろう。この人に必要なのはサンデル先生がいう「陶冶のプロジェクト」か、観察の観察からしか観察ができないというルーマン先生のお言葉ではないか。だが、とはいえ、わたし自身が退陣劇を“政治ショウ”とみて、ヤジを飛ばすだけの観客に堕していてはならないと思う。

この事態をどのように受け止め、考えるのか--。議論の起点は、福田が党内で指導力を発揮できなかったとか、公明党から揺さぶられたとかいう理由を探し、訳知り顔で開陳することであってはならない。わたしだけが知っている的に記述される政権内部のヒソヒソ話や流言飛語のたぐいは、この際どうでもよい。むしろ、社会の(国家の)問題として熟議する--少なからぬ国民が福田的なる言説を「他人事のよう」に語られていると受け止めているというそのこと自体が、リベラル・デモクラシーの病理現象だということから考えてみたい。

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コメント

こんにちは。
今回の騒動、身を引いて危機感をあおるという受け止め方はだめですか?
ここまで来たら、もう、政治家の恥をみんな一気にさらしているように思えてなりません。
やる気のない辞め方も、やる気のない世の中を反映しているようです。
そうでない方もいっぱいいらっしゃるでしょうけれど、
今回脱力したのは確かですね〜‥‥。

投稿: mine | 2008年9月 2日 (火) 15時24分

>mineさん
 こんにちは! びっくりですね。宰相が2人続けて無責任な辞め方をしたなんて、憲政史上はじめてでしょうね。福田さんに対する怒りというか、脱力というものは少なくありません。福田さんをみんなで担いだ自民党も愚かです。
 おっしゃるとおり、もしも福田さんが「身を引く」ことで国民に「危機感」が広がれば、それはそれで善い方向になるかもしれません。市町村単位から国単位まで、政治をわがことと引き受ける人が増えればいいと思う。政治とは、永田町の人たちのおもちゃじゃなくて、私たちのものですから。
 ぼくが引っかかるのは、政治にかかわる情報が次々に消費されることです。
 たとえば、「次はアソウさんできまりだね」だとか「女性のコイケさんやノダさんに期待する」だとか、まるで芝居の配役でも予想する観客の存在は、福田さんが醸し出す「他人事みたい」ムードと表裏一体ではないでしょうか。とりわけ小泉政権の時代から観客民主主義が強まった気がしています。という問題意識から「政治報道という政治問題」という問いを立てたいと、思った次第です。

投稿: 畑仲哲雄 | 2008年9月 3日 (水) 07時24分

奥歯にものがはさまったような印象です。言いたいことが伝わらない。あなたが主張したかったのは、日本の政治的コミュニケーションを悪くしている犯人は、①政治家だけではなく、②政治ショーの観客たる国民もそうだし、なによりも③官邸記者クラブ的な政治部文化ということではないですか? ただし、③を堂々と主張すると、あなたの立場に問題が生じる。しょせんあなたも業界内の人間ですから、その業界を去るまでは、表現の自由を奪われている。そのことも⑤として問題に追加しておいてもいいのじゃない?

投稿: QWERTY | 2008年9月 4日 (木) 06時33分

>QWERTYさん

>③官邸記者クラブ的な政治部文化

 核心を突かれた思いです。厳しいコメントに感謝しています。

 ただし、業界内人間だから言いたいことが言えない、というのは、私に限らずほぼ万人についていえるのではないでしょうか。およそ社会的な生活を営んでいる者は、ふつう複数の組織や団体に帰属しています。しがらみのない人間などいないはず。それは「QWERTY」さんもサンクション・フリーで実名発言ができますか?

 あと、付け加えれば「表現の自由を奪われている」という表現はすこし大げさです。表現の自由はあります。ただし、一定の責任が伴うというだけのことです。やるときはやります、とだけ申し添えておきます。

投稿: 畑仲哲雄 | 2008年9月 4日 (木) 16時32分

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