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2008年10月26日 (日)

第二の近代≒再帰的近代と熟議(備忘録)

Sinoharaすこし前のこと。某新聞社の先輩に「デリベラティブ・ポリング というのがありますよ」とお伝えしたことがある。当時はたんに「めずらしいもの」としてお知らせしたにすぎなかったのだが、ただの物珍しさだけではなく「いまこそ必要なもの」として提案べきであったと反省している。きっかけは、Hゼミで熟議と再帰的近代化との関係について問われ、要領よく説明できなかったこと。ようするに、本で読んだだけの知識がわたしの血肉となっていなかった、ということだ。

篠原一 (2004) 『市民の政治学-討議デモクラシーとは何か』 岩波新書

民主主義について、かつてのわたしは無条件で「よいルール」と信じていた。意見がまとまらないとき「じゃ民主的に多数決で決めようぜ」なんていうセリフをなんの疑いもなく肯定してきた。だが、民主主義は一枚岩ではないし、さまざまな問題や矛盾をはらんでいる。それら民主主義をめぐる問題や課題を乗り越えようという知的な格闘も行われている(民主主義そのものを否定する意見もあるが)。ただ、そうした議論の前提は、今わたしたちが生きている「近代」という時代をどのように捉えるかで大きく変わってくる。

民主主義のルーツは、古代ギリシャ都市国家における成年男子が参加した民会とされる。性や身分の差別を肯定しつつも、直接民主主義が実践されていた例があった。ただし、都市国家レベルの民主主義はさほど長続きせず、世界は宗教的権威や軍事力・武力が民を支配する秩序に覆われる。そんな中世の殻を破るようにして「近代」が生まれてくる。

そして16世紀ごろからルネッサンスの発展、近代的市場の拡大、宗教改革などに象徴される初期近代(=近世)がはじまり、やがて科学革命、近代国家の発展、近代産業の成立、市民革命をへて、18世紀中葉から本格的な近代が始動する。これが「第一の近代」のはじまりであり、近代社会の構造的特質はこの段階で確立する。(p.3)
そして第二次大戦後、先進資本主義社会はいわゆる「黄金時代」を迎えることになった。しかし、このような近代社会の爛熟の中から、いわば、近代の成功の結果として、種々の矛盾やリスクに対する警告としての各種の「新しい社会運動」といわれる現象が発生し、「第二の近代」への転換の兆候があらわれる (p.4)

篠原先生によると、近代がもたらしたものには「時間革命」「空間革命」「交通革命」などがあるといい、近代の構造を表す五つの柱を提示する。すなわち、(1)資本主義、(2)産業主義、(3)近代国家、(4)個人主義、(5)科学主義。これらの柱は、わたしたちの社会で発生している諸問題(リスク)を、かならずしもうまく解決してくれない。それどころか、リスクを促進することすら多々ある。そして、近代から出てきたリスクに対応しようとしているのは、「新しい社会運動」としてくくられる非政府や非営利のもので、それらは特定政党やイデオロギーに組織化されたり動員されたりしない。

ベックやギデンズによれば、近代社会は「伝統社会とちがって自らを批判し変革する力を内蔵」し(p.45)ており、内省的近代化というメカニズムが働くがゆえに、「再生産の過程で自己のモニタリングを行って自己を変革していく」(p.47)運命にあるという。とくに、ベックによると、第一の近代の課題を「貧困の解決」で、「貧困の連帯」を招いたのに対し、第二の近代の課題は近代社会が生み出したリスクに対する「不安の連帯」なのだ(p.48)。このあたりを理解するためのキーワードは「リスク社会」、「再帰的(reflexive)」、「省察」、「自己との対決」だが、わたしが端折って説明すると間違う危険性が大きいので、ここでは省略。

とまれ、第二の近代(再帰的近代)は、デモクラシーに対しても自らを批判し、モニタリングをおこなって自己改革することを強いる。政治においては「サブ政治」が発展し、ラディカル・デモクラシー論が登場する。国家内の代議制や官僚制によって解決できるものだけを扱うのではなく、それらが対応できない領域で発生する諸問題を政治化し、理論化する主体は、既存の政治システム内部にいる人というよりも、むしろ外部にいる市民層ということだ。そんな流れの中に、メルッチの『現在に生きる遊牧民(ノマド)』が描く新しい社会運動があれば、新トクヴィル派やNGOやNPOなどの結社革命がある。そしてそれらは、第二の近代の所産といわけだ。

経済についていえば、一国の政府では対応できないくらいマーケットは巨大化し、持てる人たちの投機マネーは何百万人、何千万人の労働を一瞬にして奪ったり、生活を破壊したりする。環境破壊についていえば現在の人為的な国境線を超えるという横軸だけではなく、人類や生物の未来という縦軸にも深刻な結果を残す。これら近代が生んだ諸問題を解決するには、選挙で一票を投じるだけでよいのだろうか、という疑問が生じる。少なくともわたしにはそうした思いが強い。

さてそこで、第二の近代を生きる私たちは、どのようにすれば(1)資本主義、(2)産業主義、(3)近代国家、(4)個人主義、(5)科学主義が産み落とす近代の諸問題と向き合えるだろうか。ひとつの安易な道は、頭が良くて、私心がなく、人柄のよいエリート層に解決をゆだねることだろう。既存の政治家、経済人、官僚たちはあまりアテにならないので、新しいエリートを選び、正統化する方法を確立する。でも、そんなことはできっこない。となれば、やはり新たな層が頑張らなくてはならない。

篠原先生は、代議制民主主義をあたまから否定するのではなく、2トラックのデモクラシーを紹介している。第1トラックは既存の近代国家と議会による政治空間であり、第2トラックは市民層が熟議や討議をすることで政治に直接参加したり、意見を表明するというものである。2トラックが互いを刺激し合うことで、リスク社会のよりよく生きられるようになるはずだ(甘いかな?)。具体的な討議デモクラシーの手法はいくつもある。そのうちの一つが、冒頭で示した「デリベラティブ・ポリング」である。コンセンサス会議なども討議(熟議)デモクラシーの制度設計といえる。

討議(熟議)デモクラシーはいま一番ホットなテーマである。それをめぐって立場の違いや論争もある。篠原先生の立場はどうなのだろう。彼はこの本の中で、ハーバーマスの手続き主義的な討議デモクラシーや、ムフの闘技デモクラシー、ドライゼックの熟議(討議)デモクラシーなどの違いや論点を明確に整序しつつも、みずからの立場をハッキリとは言わない。ただ、最終章「市民の条件」のなかで、ダールの「それなりの市民 (adequate citizen) 」という表現を引用し、「それなりの市民 (good enough citizen) 」、「ふつうの人々」に希望を託しているように見えた。

でも、それってデューイの「common man」と似てますよ。リップマンは「民主主義の問題は民主的に解決できない」と言ってのけ、エリート支配を推奨し、これに怒ったデューイがふつうの人々に希望を見出したのだが……わたしはどこまでいっても、この論争にからめとられてしまう。またしても出口のない堂々めぐりとなる(涙)。ここから出してくれ!

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