« 田母神論文公表の効用 | トップページ | 『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』 の源流 »

2008年11月22日 (土)

社会学の「まなざし」

24458_2見田宗介さんの『まなざしの地獄』が、こんなにもすごいとは思わなかった。人と社会と時代を見る眼。そして何よりも(誤解を招くかも知れないが)想像力に圧倒された。巻末の大澤真幸さんによる解説にもしびれた。「まなざしの地獄」は故永山則夫氏をめぐって書かれた1973年の論考で、大澤さんの解説は見田論文を受けて2008年の秋葉原事件との関連について分析している。社会学者の「まなざし」にしびれたよ。

見田宗介 (2008) 『まなざしの地獄 - 尽きなく生きることの社会学』 河出書房新社

見田論文「まなざしの地獄」の初出は、『展望』1973年5月号、単行本収録は『現代社会の社会意識』弘文堂、1979年。「新しい望郷の歌」の初出は『日本』1965年11月号、単行本収録は『現代日本の心情と論理』筑摩書房、1971年。古い部類に入るが、わたしにはとても新しく新鮮に思えた。学ぶべき点が多い。大澤さんは見田さんの弟子ということもあり、解説にリキが入っている。

「まなざしの地獄」では、永山則夫の名前は「N・N」という符号で記されている。なぜなら、これは永山則夫の実像にせまったノンフィクション作品ではなく、「金の卵」として上京した永山たち地方出身少年たちの生きた都市についての論考であるから。

いまN・Nは現代日本の都市に実在するひとりの少年である。本稿はこのN・Nの生活し記録を軸として展開する。しかし本稿はN・N論ではない。ひとりの少年が「尽きなく存在し」ようとしたゆえに、その生の投企において必然に彼の情況として照らし出してしまった、現代日本の都市というもの、その人間にとっての意味の一つの断片を、ここでは追及してみたいと思う。(p.7)

上京前の少年たちにとって、ふるさとはどのようなものであったか。見田さんは「第一に、N・Nのかくも憎悪した家郷とは、共同体としての家郷の現像ではなく、じつはそれ自体、近代資本制の原理によって風化させられた家郷であること、いわば〈都会〉の遠隔作用によって破壊された共同体としての家郷であった」(p.11)という認識から出発する。すべての少年がそのような家郷観を抱いていたわけではないにせよ、ある種の自己解放を夢見て上京したN・Nのような少年たちが、ようやくたどり着いた東京で雇主たちから「金の卵」という階級的対他存在(まなざしの対象)を強いられるとのやるせなさに見田さんはしっかり寄り添う。

論文では統計資料がしばしば提示される。驚かされるのはデータの読み方である。社会調査は、物質の質量や沸点などを記す自然科学のデータと違って、読解に高度な推理力と想像力を要する。たとえば、25頁から26頁にかけて「学卒就職者の転職理由」(表1)、「年少労働者の転職の理由」(表2)、という二つの微妙に異なった統計が出てくるが、見田さんはこんなふうに記述する。

一見するとこの表は、彼らの離・転職がそうとうに「身勝手な」ものであり、雇主たちの苦労も察しられるというふうな印象を与える./ところが同じく官庁の別の統計をみると、次のようにまったく異なった様相がみられる。(中略)どちらの数字が「客観的に」正しいかという議論よりもまえに、まずこの二つの主観の明白な相違ということに着目しておきたいと思う。(中略)離職の本当の理由というものを、雇主たち、そしておそらく大人のだれもが、ほんとうには「わかっていない」という事実ではないだろうか。(pp.24-26)

そして見田さんはこうした恣意的であいまいな統計のあとで、じつにシンプルな統計表を示す。そこには、休日制と離職率の相関関係が示されている。簡単に言えば、休みが多いければ離職が少ないという事を示すもので、この「休日」にこそ、N・Nたちが家郷からも「まなざし」から解放され、尽きることなく生きようとするじぶん(アイデンティティ)を取り戻すことを見田さんは論証していく。

そんな師の論文について、大澤さんは以下のように述べる。

凡庸な論者であれば、これらの統計数値から、ただ、当時の若者労働者は、労働から解放されて、怠けることができる時間・空間が欲しいのだな、意外と給料にはこだわらないのだな、ということを読み取るだけだろう。しかし見田先生は、N・Nの事例と相互に照らし合わせることを通じて、これらの数値に、都市の話者たちからそそがれるまなざしの地獄から逃走しようとする、当時の青少年たちの切実なる欲望を読み取る。言い換えれば、N・Nの犯罪かを駆動したものと同じ欲望が、これらの数値の中に脈打っているのだ。(p.105)

大澤さんが指摘するように、見田さんは数量的なデータとN・Nの視点とを行き来しながら議論を進め、他者による自己規定としての「まなざし」が、都市を生きる生身の人間にとっての地獄であることを結論づける。

過剰人口。社会的淘汰。脱落の比率。これらの統計的な事実の実存的意味。同時にまた実存的な諸事実の統計的意味。数字の深淵。/近代市民社会の論理は、まずしい村々や家族を解体し、これらの共同体をして、みずからの死者を選ばせる。「悪いのはあの親たちだ。」「悪いのはあの息子たちだ。」「悪いのはあの近隣の人たちだ。」/N・Nの家族は法廷で、「極刑をお願いします」と言い切る。そしてこの発言のあった公判の日の手記に、N・Nはこう書き付けている。/「これは、私自身がこの事件をやる直前の感情に似ている。」(p.72)
われわれの存在の原罪性とは、なにかある超越的な神を前提とするものではなく、われわれがこの歴史的社会の中で、それぞれの生活の必要の中で、見すててきたものすべてのまなざしの現在性として、われわれの生きる社会の構造そのものに内在する地獄である。(p.73)

社会科学の研究法は、量的調査と質的調査の二種類に大別され、その両方を駆使することで実相に迫り得る。量的な調査については、最初から結果を想定して調査をしたり、都合のわるい数値をノイズとして捨てたりする言語道断な研究もあり、なんでもかんでも盲信する人もいる。だからといって、インタビューやライフヒストリーの聞き取り、参与観察(という名の密着取材)などの個別事例だけでは、「代表性」という問題を解決できない。両者を架橋する手法には学ぶべき点が多い。

大澤さんは解説の中で、N・N事件と、神戸の酒鬼薔薇聖斗事件や2008年の秋葉原事件との対比を、社会構造の変化を背景に論じているが、これがすばらしいので、大学院で社会学(とくにマスメディアやジャーナリズム研究)を志す社会人には読んでもらいたいと思った。C.ライト・ミルズの言葉を借りるわけではないが、想像力の大切さをあらためて教えられた。

|

« 田母神論文公表の効用 | トップページ | 『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』 の源流 »

「sociology」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/19960/43186199

この記事へのトラックバック一覧です: 社会学の「まなざし」:

« 田母神論文公表の効用 | トップページ | 『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』 の源流 »