二項対立ふたたび(備忘録)
アカデミシャンにもジャーナリストにも評価が高い存在もある。ジャーナリズムの側では、かつての立花隆さんや故筑紫哲也さん、辺見庸さんなどがすぐ思いつく。アカデミズムの側では、古くは丸山眞男さんや鶴見姉弟、最近ではベストセラーを量産しテレビでも大活躍の姜尚中さんが突出している。アカデミズムとジャーナリズムの双方から尊敬されるということは、彼ら彼女らが超越的な「知識人」という別世界の住人になったのかもしれない。
ふつうの記者・編集者と研究者が、互いの隣の領域を知るにはどうすればよいか。それは、相手の懐に飛び込むしかないように思われる。手持ちの定規で相手を測り、わかったふうな批判をしても、その声は届かない。とにかく飛び込み、その領域の作法に倣って思考し、記述し、体で覚えるほかはない--というのが、いまの中間的な結論。
単純化していえば、A世界の住人はA定規を使ってB世界を計り、ダメさ加減を批判するが、B世界の人には痛くも痒くもない。だが、A世界の人がB世界に飛び込めば、B定規しか使えなくなる。なるほどB世界にいるかぎり、B定規を使うことが正しいことであることがわかり、A世界のダメさも見えるようになる。だが、B定規を使ってA世界を痛烈に批判しても、A世界の住人には痛くも痒くもない。共訳可能な定規が存在しないのである。
難しいのは、いちど隣の領域に馴染んだあと、ふたたび元いた領域に戻ったときの立ち振る舞い。その人にとって、そこは元いた場所とは異なってしまう。A世界からB世界をのぞきに行き、帰ってきたら、そこは元いたA世界ではなくなるのだ。それはまるで、ロシアから帰国した大黒屋光太夫の目に映った日本のような場所で、光太夫がいくらロシア的思考で幕府にいろんなことを進言したとしても、聞き入れられることはありえないのである。
ルーマンに従えば、学システムとマスメディアとを接合するなどできないが、先述の別領域のような第三項を利用することで、共約可能性を見出すことができそうな気がしている。たとえば、アカデミズムとジャーナリズムの育ての親ともいえるデモクラシーやリベラリズムのような両システムに共通する価値を用いて橋渡しをすることである。(もちろん、ルーマン先生に言わせれば、そんなことできないのだけど)
アカデミズムもジャーナリズムも、多くの場合、自由で平等な環境を要請する。自由にものがいえない空間を排除し、自己統治への参加を促すモーメントが働く。全体主義的な社会では、国家の後ろ盾により発展する学問もあれば、経営基盤が強化されるマスメディア事業体もあるだろうが、良心的であろうとする人々には抑圧的な環境となる。なので、両システムが親和する価値やイデオロギーをもちいることで、風通しをよくすることはできそうだ。
両者を取り持ちうるのは、「知識人」ばかりではなく、互いの懐に飛び込んだ越境者あるいは周縁の存在=マージナルマンではないか。そうしたハイブリッドな存在が増えることが、二つの反目し合う世界にとって思わぬ益をもたらすと考えているのは、マージナルマンだけなのだろうか。もしそうなら悲劇だなあ。
| 固定リンク
「journalism」カテゴリの記事
- 大学の序列と書き手の属性(2023.03.30)
- 2020年に観た映画とドラマ(備忘録)(2020.12.29)
- 議論を誘発する『赤い闇 スターリンの冷たい大地で』(2020.08.20)
- 捜査幹部から賭けマージャンの誘いを受けたら 連載「ジャーナリズムの道徳的ジレンマ」第23回(2020.06.13)
- 取材源の秘匿について-産経新聞「主張」を批判する(2020.05.22)
「sociology」カテゴリの記事
- 2020年に観た映画とドラマ(備忘録)(2020.12.29)
- 新聞書評『沖縄で新聞記者になる』(2020.05.19)
- 記者たちの省察~『沖縄で新聞記者になる』を書いて(2020.03.30)
- 『沖縄で新聞記者になる:本土出身者たちが語る沖縄とジャーナリズム』出版しました(2020.02.17)
- 『ジャーナリズムの道徳的ジレンマ』重版出来!(2019.11.29)
「school life」カテゴリの記事
- 大学の序列と書き手の属性(2023.03.30)
- 卒論審査の基準公開(2020.12.16)
- 『ジャーナリズムの道徳的ジレンマ』ワークショップ@新聞労連JTC(2020.03.22)
- 『ジャーナリズムの道徳的ジレンマ』重版出来!(2019.11.29)
- ゼミ学生の推薦状(2019.11.07)
この記事へのコメントは終了しました。
コメント
マージナリティ‥‥ですね。
大変分かりやすいものでした。ありがとうございます。
しかし、一つ、私は全て「和解」することもまた正しいとは思わず、
両者のなかの周縁の人々は必ず存在し、
どちらか一方に足を踏み入れている人々はそれを寛容できるかという
懐の深さもはかられている気がします。(はかられてると言うのもおかしな言い回しですね。)
だからマージナルマンは悲劇ではないなぁと感じるのですよ。(^_^)
すてきな文章でした〜。
早く「新聞再生」読まねば〜〜〜〜!!!
投稿: mine | 2008年12月27日 (土) 12時32分
mineさん
なにがなんだか分からないような抽象的なエントリーなのに、コメントをありがとうございます。
『新聞再生』、めった斬りされるかどうか・・ちょっとコワイです。
投稿: 畑仲哲雄 | 2008年12月27日 (土) 17時57分
ジャーナリズムの視点での「マージナル」と、ポイントを置いてみて読んでみました。
3回ほど読みました。(ポイントずれてたらごめんなさい)
すごく勉強になるエントリーがいつもあって興味深いのです。(何様?!ですね‥‥)
個人でのものさしでさえ、すごくちっちゃいのに、
さらに周辺を私はどのようにとらえてるか‥‥。
足下震えます(気がちっちゃいのでww)
新聞再生はまだ読んでいないけれど、形にするってすごく勇気がいるような気がします。
頑張って下さい!応援しています。
投稿: mine | 2008年12月27日 (土) 21時08分
>mineさん
ありがとうございます。
なんというか、わたし自身が二足のわらじの間で、股裂き状態になって苦し紛れに書いている備忘録なので、、、とても勇気づけられます。
ありがとう。そして、良いお年を。
投稿: 畑仲哲雄 | 2008年12月27日 (土) 21時14分