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2009年1月14日 (水)

読まない学生に教える新聞

新聞記者から大学教授に転身をする先輩からメールをいただき、あれこれと考えさせられた。わたしが尊敬するその先輩は在職中から私大でマスメディアに関する講義していて教育者としてのキャリアも積んでいる。堅実な学芸記者としての経験と誰からも愛される温和で朗らかな人柄、達意の文章力、そして近年培った教え授けるスキル。なんとも申し分ない存在なのだが、彼の悩みは学生のほとんどが新聞紙を読んでいないという冷徹な事実なのだ。

なぜ学生たちが先輩の授業を履修するのか。わたしはいまだに教えてもらう側にいるので、いくぶん学生の身になって想像ができる。勝手に想像してみると、たとえば授業のなかで余談として語られるであろう記者時代の体験談が面白そうな気がする。わたしたちが気軽に行けないようなところへ行き、めったに会えない人に会ったりしてきたわけだから、図書館にこもりがちな学者とは違って、わくわくさせてくれる話がいくつもありそうだ。そんな期待を抱かせる。

また、いわゆる「マスコミ論」のような授業は、社会科学的知識の蓄積がなくても(ないほうが?)単位が取れそうな気がする。ロックやルソーなどの自由主義思潮の史的発展にまつわる重箱の隅をつつくような論争を知らなくても、アレントやハーバーマスの公共性をめぐる複雑で読みづらい論文や、現代フェミニズムの晦渋な文献を読みこなさなくても、SSPSやSASで重回帰分析などをしなくてもOK。たとえばウォーターゲート報道や、グリコ森永事件、遺跡捏造発掘などの特ダネを採り上げてジャーナリズムの面白さと困難さの感想文のようなものをレポートとして提出すれば、おめこぼしの単位がころがりこんでくるような根拠のない予期がある。

さらにいえば、マスコミ業界に就職しようとするときに相談相手になってもらえそうな気がする。できれば口利きをしてもらえればありがたい。それが無理でも、かつて先生が務めていた会社の雰囲気や給料などについて教えてもらえるだろう。また、記者だからこそ知り得たであろう「入ってはいけない会社」情報なども得られるかもしれない。取材や記事の書き方などについての実技指導があれば、それは他の業種へ進む人にも役立つだろう…… まあ、いろんな意味で、就職活動の第一歩のつもりで履修する学生がいたとしても不思議ではない。

だが、新聞を核とするマスメディア関連教育する側の立場からすると、思いは複雑である。先輩はいい加減な人ではないので、若い人たちに〈新聞〉というものへの興味を深めてほしいだろうし、存在意義をしっかり理解してもらいたいはずだ。教え子のなかから優秀な新聞記者を排出したいという思いもあるだろう。なのに学生の多くが日常的に新聞紙を手にしない。教員は押し売りではないのだから「定期購読しなさい」「ちゃんと読みなさい」と命じる立場にない。まじめな先生ほど、キツく感じるのではないか。

元学者の記者と元記者の研究者の数はそれほどいない(わが師は珍しい存在だ)。だが、元記者の教育者はそこそこいる。彼ら彼女らの多くは、学問一筋で生きてきた研究者と互していけるアカデミックな知識はないが、それ自体は悪いことでもなんでもない。現場のキャリアをいかして魅力的な講義ができる人は少なくない。教員の多様化に寄与するはずだ。大学当局はこうした人材をうまく生かしてほしいと思うのだが、大学とマスコミが緊張関係を失ってズブズブの関係に陥ってしまうのも考えもので、むつかしい問題です。

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コメント

私も正直に言うと読まない人、なのですが、いつも不思議に思うのです。
「なぜ読んだ方がいいのか?」
を、明快に簡潔に示唆していただければ、
もっというと「なるほど!じゃ、読んでみよ!」と、思わせる一言があれば問題解決だと思うのです。
最近、読んでみようと思ったきっかけは知人の一言。
「ニュース(それぞれの記事)を立体的に頭の中で構成することが社会を読み解く鍵。その訓練は新聞だからこそできる」
という、言葉でした。なるほど!とは、思ったものの‥‥‥、
各新聞社のネットを渡り歩くだけです‥‥すみません‥‥‥‥。
実際は毎日新聞を購読したとしても毎日読める自信がない‥‥というのが本音かもしれません。

投稿: mine | 2009年1月14日 (水) 05時58分

>mineさん
 率直なご意見をありがとうございます。mineさんのように意見を表明してくれる人は、もっともありがたい存在です。
「新聞なんて必要ないよ」と言われたとき、
「ああ、なるほど。そうですね。おっしゃる点は、よく分かります」
 と真摯に受け止めたうえで、わたしには2つの選択肢が残されます。
 ひとつは、「やっぱ、ネット時代ですから」とか「最近のマスゴミなんて…」と冷笑するシニカルな選択肢。
 もうひとつは、
「でもさ、3分だけ話を聞いて。じつはね……」と、それを起点に対話を深めていく討議型の選択肢。
 もちろん、ぼくは後者の立場です。
 決して無理強いしませんが、これについて対話をしていただけることを希望します。なんだか、押し売りみたいでうっとうしいなあと思われたら、すぐに撤退します。どうかよろしくお願いします。

投稿: 畑仲哲雄 | 2009年1月14日 (水) 06時31分

>mineさん
 かれこれ5年ほど前、ちょっと話題を呼んだオンラインの動画ファイルが作られました。EPIC2014です。米国の若いメディア研究者が作りました。ご覧になったことはありますか。
http://blog.digi-squad.com/archives/000726.html
 これが登場した当時、日本ではブログ普及期で、アルファ・ブロガーたちは少し興奮気味に、新聞社などのマスメディア企業に対し「分かっていない」「気づいていない」などと喧伝したものです。しかし今日、EPIC2014の問いかけを真剣に考え、論じているアルファ・ブロガーにはお目にかかりません。イケてるはずだった彼・彼女らですが、技術決定論が用意した舞台でもっとも踊らされていた存在だったかもしれません。
 EPIC2014の作者は作品の最後に警句を残しています。それは、技術の進歩が矢継ぎ早に私たちの社会を覆い、メディアと民主主義をめぐる議論する機会が奪われるというものです。
 こんな言い方をすると笑われるかも知れませんが、わたしは〈新聞〉の見方を変えてみてはどうかと思っています。〈新聞〉を、ナベカマと同じような消費財と認識するのには反対です。〈新聞〉というのは一種の社会現象で、新聞社+新聞記者+新聞紙+新聞読者+広告主……たちが関係し合って形成しているものだと思うのです。
 おいしいから読み、おいしくないから読まないという消費者的な立場を否定しません。でも、読者には新聞紙を批判的に読んだり、作り手の記者たちに注文を出したり、媒体を通じて知らない人たちとコミュニケートしたり……もっと主体的に参加できるのではないかと思うのです。
 たまたま使えそうな書き手たちが一定程度集まっている団体があり、それが新聞社なのだと思うわけです。もちろんそこには問題が少なからずあります。「気づいていない」人も大勢いるのでしょう。ただ、少なくともEPIC2014が示唆する2014年くらいまでは、私たちの社会と民主主義のあり方を考えるうえで、新聞紙に批判的な目を持ちながら関わってもよいのではないかと思うのです。
 なんだか長くなったので、今回はこのくらいで。長々と申しわけありません。

投稿: 畑仲哲雄 | 2009年1月14日 (水) 21時05分

ハタさん、面白い記事、ありがとうございました。

>もっと主体的に参加できるのではないかと思うのです。
本当にそう思います。
新聞というどこか神格化‥‥‥、
そしてハタさんのおっしゃるような枠組み(新聞社+新聞記者+新聞紙+新聞読者+広告主)だけに終止すると、
新聞反対と賛成にどうしても分けられてしまう。

>たまたま使えそうな書き手たちが一定程度集まっている団体があり、それが新聞社‥
そのように感じます。だから記者の人たちも字数制限の中でもどかしい思いをしているでしょうね。
技術の進歩によるより融合的な新しいニューズペーパーが誕生することを願ってやみません。

私は新聞反対というよりも、メディアとしての在り方を考える必要があると思いました。
広告主‥‥の下にはデザイナーさんがいるわけで、
結局は人が技術に追い付いてないことが多少見えかくれして、
少々辟易している今日この頃‥‥‥(笑)

きっと、緩やかに変わって行くでしょうね‥‥‥。決して悪い方ではなく。

投稿: mine | 2009年1月15日 (木) 00時21分

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