臨床報道/臨床哲学
2009年1月21日に大学院で開催した「メディア研究のつどい」で寺島英弥さんの話をうかがいながら、わたしは「臨床哲学」を思い出していた。臨床哲学。それは阪大総長の鷲田清一先生が提唱されたもので、わたしは『「聴く」ことの力 ― 臨床哲学試論』を水越先生のゼミで読み、その一端に触れた。鷲田さんはフランクルの「ホモ・パティエンス」を引用しながら、受難(passion)や苦しみ(Leidewesen)というものを個別具体的にみていくという「臨床」を通して、じつは、じぶん自身を内省しようとしているようにわたしには思えた。内容的には異なるが、寺島さんが試みる「つながるジャーナリズム」を「臨床報道」と呼びたくなった。
寺島英弥 (2005) 『シビック・ジャーナリズムの挑戦 ― コミュニティとつながる米国の地方紙』 日本評論社
鷲田清一 (1999) 『「聴く」ことの力―臨床哲学試論』 阪急コミュニケーションズ
『シビック・ジャーナリズムの挑戦』で寺島さんは米国の地方紙が取り組んだパブリック・ジャーナリズム運動の実例を紹介した。残念ながら、出版直後からセンセーションを巻き起こすことはなかった。それに先立つ2002年に、わが師が『マスメディアの周縁、ジャーナリズムの核心』のなかでもその運動を論じたが(研究書なので)、大きなうねりを作ることはなかった。むろん米国の地方紙をマネる必要はない。それが日本の土壌に合うとは限らない。むしろ、その思想的背景はリベラリズムから「逸脱」すると難じる言説の存在さえあったわけだから。
正直に告白すると、わたしも危惧していたことがある。それは寺島さんが米国の事例を紹介しつつ、終章でスパイクタイヤ追放報道を展開した『河北新報』のパブリック・ジャーナリズム例を積極的に紹介されていたことだ。「宣伝」と受け止められかねない危惧。もうひとつは「それで儲かるのか」といったベタな問いに対する応答困難性。後者については、応答が困難であったとしても、逆に、主流報道の目的合理的な商業志向のオルタナティブであることを示せばそれで十分であると思っていたが、先日の寺島さんの話の内容は、チンケなわたしのな危惧を120%払拭してくれた。
わたしを含めた小賢しい策を弄するタイプの人間とちがい、寺島さんは『シビックジャーナリズムの挑戦』を著した後に、個別具体的な現場で、傷つき苦悩する人たちの声にじっと耳を澄ますところから地道な運動を始めていた。じぶん自身を「他者」と位置づけるのではなく、じぶんもまた傷つきやすい一人の人間として、そっと耳を澄ます。それはもはや、ある時期の米国内で通用したパブリック・ジャーナリズム運動を超え、生活綴方運動のような地に足のついた表現の第一歩ではないか。
鷲田先生の「臨床哲学」が、方法論を含めたじぶんたちの哲学という営みに対する深い内省と言って差し支えなければ、寺島さんが病の床に横たわる人々(「対象」はもちろん、記者や編集者を含めて)を前に、じっと耳を澄ましているようにみえ、そこに両者の思想的な共通点が強く感じられるのである。
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