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2009年1月29日 (木)

『タブロイド』とビジランティズム

Cronicas法治国家はリンチ(私刑)を許さない。だが、現実はそうした暴力ほど人を高揚させ、慰撫するものはないのかもしれない。それは戦場という特異な場だけで起こっていることではなくて、平和なコミュニティでもふつうに起きていることを映画『タブロイド』は突きつける。日本とエクアドルとではマスメディアやジャーナリストのあり方がいくぶん異なっているが、そういうことを抜きにして、この恐怖は普遍的だと思う。

セバスチャン・コルデロ監督 『タブロイド』 (原題:Crónicas 英題:Tabloid 、メキシコ・エクアドル、2006)

物語の主人公はテレビの人気レポーター。彼とそのスタッフが、「モンスター」と呼ばれる連続児童強姦殺害犯を割り出し、警察を出し抜いて「自白証言」のスクープを得ようと奮闘するもので、サスペンス劇の形式を採っているため、ネタバレは慎み、印象的な場面を抜き書きする。

こわかったシーンその1。
交通事故が発生する。男の子が頭から血を流して倒れる。運転者Aは一瞬、逃げようとするそぶりをする。現場にいあわせた男たちが「逃がさないぞ!」とAを車から引きずり出し、殴る蹴るの暴行を加え始める。被害者の子供の父親Bも暴行に加わる。Aは血まみれ。高揚した男たちはAの頭から、どこから持ってきたのか全身にガソリンを浴びせかける。男たちがBをけしかけ、はやしたてる。テレビクルーは一連のシーンをすべて撮影している。

こわかったシーンその2。
Aは交通事故の加害者として留置場にぶち込まれる。Bも、Aに対する暴行のため同じ留置場へ入るが、隙を狙ってAに暴行を加える。留置場の男たちは(役人も含めて)みなBに同情的で、Aを殺害する機会をつくってやる。Aは防衛のため糞便を体中に付着させる。

こわかったシーンその3。
本編のエンディングは消化不良に思えたが、DVDに収録されていた別エンディングがあまりに秀逸で、これがチビってしまうくらい怖かった。これはネタバレになるので書けない。こちらを本編のエンディングにすべきだったと思うのはわたしだけではあるまい。

この映画で恐ろしいのはモンスターではなく、本当のモンスターは容疑段階で残忍なリンチを加える自警団(ビジランティ)であり、そんなゲバルトを治安維持と感情回復の装置として温存するコミュニティのふつうの人々であり、センセーショナルな番組を作るマスメディア関係者であるということだ。わたしはこの映画で、中年警部に感情移入していた。彼は法治の理念をよりどころに、苛立ちながら黙々と仕事をするが、モンスターたちの前ではまったく無力な存在なのだ。ほかに感情移入できる人がいないのがこの映画の難しさなのだと思うが。

えー、ちなみに、この作品にはいくつもの辛口批評が加えられているようです。たとえば、連続殺人犯の心理描写がなってないだとか、人間観が浅いとか、悪が描けていないだとか、演技が深みに欠けるだとか、音楽がダメとか…… でも、わたしはそういうのはどうでもいいことのように思えます。セバスチャン・コルデロ監督が“告発”しているのは、コミュニティの自警主義(ビジランティズム)やセンセーショナルな報道に象徴される暴力の怖さではないかと(勝手に)思いました。

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コメント

 前に見たなあと思ってメモひっくり返したら2007年1月でした。感想はなし。

 ジャーナリストの話なのに共感できる部分があまりなくて、エクアドルって遠いところなんだなあ、としょうもないことを考えたのを覚えています。女性キャスターだかリポーターばかり見ていたせいかもしれません。

投稿: schmidt | 2009年1月29日 (木) 16時05分

>schmidtさん
 この作品、わたしも物語としてはいまひとつですが、コミュニティの感情回復機能が法と正義に優越するという前提に怖気しました。ちなみに、ヒロインは、アルモドバル監督作品『トーク・トゥ・ハー』で意識不明の女を演じたレオノール・ワトリングでした(笑)。

投稿: 畑仲哲雄 | 2009年1月29日 (木) 21時08分

>ヒロインは、アルモドバル監督作品『トーク・トゥ・ハー』で意識不明の女を演じたレオノール・ワトリングでした。

 ああ、そうでしたかねえ。気がつかなかった。あの映画では、切実だけど気味の悪い看護士役を演じていたハビエル・カマラしか印象に残っていません。「あなたになら言える秘密のこと(The Secret Life of Words)」(イサベル・コイシェ監督、スペイン、2005年)でコック役を演じていたのを見て「おお」と思ったことでした。

投稿: schmidt | 2009年1月30日 (金) 10時38分

 すみません。追加です。

>コミュニティの感情回復機能が法と正義に優越するという前提

 そういう前提をたしなめるヒーローやヒロインが登場することを、何となく期待してしまいます。そうならない場合は、事実は小説よりも・・とか、しょせん、作り物よとうそぶくのがせいぜいです。虚構が虚構として成立するには、その内容が優れていると同時に、一定の支持を取り付ける必要があります。小説家、映画監督、芸術家が大変だなあと思うのはそこんところです。

 話はずれますが、前提といえば。
 楽しくて幸せになるような記事を読みたいとか、そういう記事を積極的に使おうという考え方も、ある種の虚構を前提にしないといけません。個人的には何となく寒々しく感じるのはそのためでしょうか。

投稿: schmidt | 2009年1月30日 (金) 10時46分

>小説家、映画監督、芸術家が大変だなあと思うのはそこんところです
 なるほど、本当にそうですね。リアルではないが、リアリティをいかに物語るかという力量を問われるわけですね。
 「楽しくて幸せになるような記事」というのは、どこかで聞いたことがあるような…(笑)。どういう人たちがそういう記事を求めているのか、知りたいところです。ちょっと古典的な視座かもしれませんが、ファシズム政権下のマスメディアでは、そういう記事が多くなるような気がします。

投稿: 畑仲哲雄 | 2009年1月30日 (金) 16時58分

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