『光州5・18』を観て
授業の一環として行われた映画上映会で『光州5・18』を観て、統治権力によるゲバルトの恐怖と、それを記述・伝達することの困難さについて考えさせられた。「光州事件」は1980年5月18日から27日にかけて、民主化を掲げる市民に対して戒厳軍がおこなった大規模殺戮を指す。韓国では「光州民主化運動」と名付けられているが、1989年の北京のように首都中心部で起こったわけでもないため、ながらく周縁地域の歴史として埋もれてきた。その「事件」が娯楽映画として上映され、興行的にも成功した。それがこの映画である。
キム・ジフン監督 『光州5・18』 ( 原題:華麗なる休暇、2008, 韓国 )
配給元・角川映画による日本語公式サイト http://may18.jp/
統治権力の弾圧は、大規模なものから小規模なものまで、洋の東西や時代を問わず、いたるところに見出せる。ウェーバーを持ち出すまでもなく、近代国家にはゲバルトを集中させた暴力装置という側面があり、ときおり顔を覗かせる。暴力が全国民に対して向けられることはない。従順ではない「一部の」者に「反乱分子」や「秩序紊乱者」、「利敵行為」などのレッテルが貼られ、容赦ない暴力が行使されるのである。そのとき「最大多数の最大幸福」という功利主義的な正当性が喧伝され、「治安」の名の下に少数者の「人権」が見捨てられる。
こうしたゲバルトを伝えることは容易ではない。
多数者の側に「お気の毒」「かわいそう」という感情をかきたてる表現方法はある。光州事件では、泣きながら父親の遺影を抱く子供の外電写真が象徴的な意味を持った。しかし、光州市民たちは同情してもらいたいわけではない。多数者側に事実を知らせ、地域の事件ではなく、国家のアジェンダにしてもらいたいし、デモクラシーが踏みにじられていることを訴えたいのである。
では、どう伝えるか。
上映後のディスカッションでも議論されたが、市民側は「民主化運動」をしていることを主張するが、軍からすれば「暴徒」となる。マスメディアは多数者側にニュースを買ってもらうことで成立しているので、多数者の利益を代弁すればよいかといえば、そうではない。少数者の利益が損なわれ、自由が奪われれば、リベラル・デモクラシーが存立基盤を失うことになり、ジャーナリズムの「ism」と矛盾をきたす。
では、ジャーナリズムの「ism」とは何かといえば、一義的にはリベラル・デモクラシーの擁護であろう。つまり、ジャーナリズムはある種のアドボカティブな活動ではないか。そのように自己規定すれば、ジャーナリストは客観的な傍観者ではなく、社会活動の実践者として目の前の事象と対峙できるはずだ。感情を揺さぶる写真やセンセーショナルな記事は、アドボカシーのための手段とみなせるはずだ。
そんなことを考えていたら、映画を解説してくださった真鍋准教授が「この映画に対して、メロドラマだなどの批判が寄せられた。でも、メロドラマじゃなければ、映画は作られなかった。光州事件をテーマにした映画が撮られたことは画期的」と話した。わが意を得たり。このコメントを聴けただけでも、上映会に参加してよかった。
たしかに本作は、ラブロマンスやコメディの要素を多分に含み、政治的な争点は捨象されている。それでも、大衆に訴求するこうした映画が作られることの意義を高く買いたい。
追記
原題の「華麗なる休暇」は、戒厳軍の作戦名。
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コメント
ご存じでしょうが、林憲一郎メディアラボの社長は、当時、ソウル特派員で、あまりにも過激な光州事件の記事を書いたことのけん責処分というのか、当時の韓国政府から退去、追放処分を受けました。韓国が戒厳令下にあった時代の話です。では、また。
投稿: 茨城大 | 2009年5月31日 (日) 16時02分
上記コメント、もしかして、茨城大学人文学部人文コミュニケーション学科でジャーナリズム論を講じておられる古賀教授ですか?
投稿: 畑仲哲雄 | 2009年5月31日 (日) 19時02分
最近、光州事件に関連した映画やドラマが多く作られていますね。
少しずつ見ていますが、やはり恋愛ドラマであったり人の生活そのもに視点をおいた作りが多いです。
確かに政治的な部分を全面に出さなくても、当時のそれを感じられる作品になってますね。
昔勤めてた旅行会社で、光州事件や政治活動で投獄された人たちを支援されてる方々が韓国に入国する手続きをとった事が有ります。
当時は韓国入国にはビザが必要でしたので、いろんな方法でソウルへ飛ばしていましたが、当時は状況が良く理解できず今頃になってちらほらと出てきた当時の様子を再認識してる次第です。
投稿: かのう | 2009年5月31日 (日) 23時42分
>かのうさま
そうですか、そうですか。旅行会社時代に支援者の入国を……。想像するに、関係者の空気はかなり違っていたでしょうね。
政治的な部分は解釈や価値評価が出てくるので、韓流スターが歌って踊るいまの韓国でも映画で表現するのが容易ではないようです。ただ、政治を捨象しても、国家が自国民を大量に殺害したという記憶は消せないですね。
投稿: 畑仲哲雄 | 2009年6月 1日 (月) 11時01分
上映会にお邪魔していましたが、自ら幹事を勤めているゼミのため、途中に出てしまいました。上映後のディスカッションがぜひ聞きたかったのでとても残念に思います。
最後まで映画を観たわけではないけれども、「メロドラマだ!」という批判があるという真鍋さんの話を聞いてこんなことを思いました。つまり、韓国の80年代から90年代にかけての間、いわゆる「地下活動」を通して作られた数多い独立(また当時は違法)映画を思い出したのです。韓国では政治的弾圧のため、言論が言論として役割を十分果たせなかった時期が長いのですが、実はその時に密かにでも活発に、創作活動を通じた社会運動が行われました。たとえば、労働運動の闘争過程をえがいた映画「ストライキ前夜」(1990)は、労働運動をポジティブに描いたという理由で上映が禁止され、上映現場に警察が押しかけて観客を連行したり、刑事処罰をするなど、ひどい弾圧を受けたのです。私もいつ警察が来るかどきどきしながらその映画を観た記憶が鮮明です。そのような「濃い」メディア経験をしてきた人々にとっては、「華麗なる休暇」はやはり甘い!大衆性にのりすぎ!と思われる部分もあると思いました。
とはいえ、映画の前半の10分くらいしか観られてなかったですけれども、母国での事件ということもあり、非常に胸が痛かったのです。。
投稿: 金ヨニ | 2009年6月 2日 (火) 22時44分
>金ヨニさま
なるほど。弾圧に負けずに作られた「濃い」作品を、危険をおかして見ておられた金さんからすれば、思いは複雑ですね。
ご指摘の通り、映画の前半はコメディ調で「なんだこれ!」といった感じでしたが、後半からラストにかけては涙と怒りを誘う作風に変わっていました。光州事件を詳しく知らない人間には、いきなりハードなドキュメンタリーを見せられるより、「入門編」としては優れていると思いました。
入門編から先に進んで、もっと詳しく知るための作品が、内外で見られるようになればいいですね。
投稿: 畑仲哲雄 | 2009年6月 3日 (水) 14時24分