最適化の果てに・・・
求人大手のリクルートが、「テレビ欄とチラシしか読まない」という消費者に的を絞ったフリーペーパー事業をスタートさせほぼ1年がすぎた。このビジネス、週刊テレビ情報紙『Town Market TV』に地元スーパーなどのチラシをくっつけて、毎週金曜日に宅配するというもの。エリアを拡大させ、順調に伸びているようである。消費者が本当に求めているだけを届けるという「マッチング」といえるのだけど、これをどう考えればよいのだろう。
リクルートがお届けする無料宅配サービス http://townmarket.jp/MP/touroku/
ジェイコブズ, ジェイン (1998) 『市場の倫理 統治の倫理』 日本経済新聞出版社;(2001) 『経済の本質―自然から学ぶ』日本経済新聞社
Jane Jacobs - Wikipedia, the free encyclopedia
かつてアメリカにジェイン・ジェイコブズJane Butzner Jacobsという人がいた。都市問題に詳しい評論家・ジャーナリストで、スプロール・バスターsprawl busterの理論的支柱であったとされている。『経済の本質』と『市場の倫理 統治の倫理』を読んだあと、わたしは彼女を勝手に思想家と位置付けた。
彼女の都市論のなかで重要視されていたのは、歩道の効用である。「歩道」といっても、街路や遊歩道のようなものと考えてさしつかえない。だれもが制約されることなく人や情報に接し、交流し、あるいは発信する、そんな場所。人がパブリックなものに触れる機会を提供する場であり、A地点からB地点へ移動するためだけの経路ではない。そうした場こそが、都市のパブリック・フォーラムとなる。パブリックフォーラムは、米国憲法第一修正が保障する表現の自由を具現化しており、日本でも伊藤正己氏が最高裁判事のときに言及している。(参考:吉祥寺駅ビラ配布事件判決)
ところで、大量伝達をするマスメディアにはいくつもの機能があるとされている。権力監視の機能。議題設定の機能。そして、フォーラム機能である。最後のものは、ジェイコブズのいう歩道や、アメリカ社会で古くから言われているパブリック・フォーラムとは必ずしもイコールではないが、考え方は同じである。公開性と共同性とを前提とするハーバーマスが言った「公共圏」とも親和する。
もっとも、今日、新聞紙だけが、パブリックなものに触れられる唯一の媒体ではない。ニュースならテレビで十分だとか、ネットでニュースを読んでるから紙は不要だとか、ニュースの読み方は2ちゃんや有名人ブログで知るという人も増えた。メディアの多様化にともない、受け手の受容行動も確実に多用になったわけだが、では、送り手側の変化はどうだろう。
教科書的にいえば、送り手であるマスメディアは、権力監視、議題設定、フォーラムなどの諸機能が受け手から強く求められているという前提で運営されてきた。なので、世情がどうあろうと、免許もいらない活字メディアは特に「わが道を行く」ことができた。売上高に直接結びつかなくても、ある種の使命感によって社会的に意義のある情報を送り出す、そんなインセンティブが働いた。
しかし、最適化やマッチングを得意とする人たちからみれば、そうしたマスメディア事業体はなんとも無駄が多い。もっと最適化して、もっと適切なマッチングしていけばいいのではないか--そうした提案がなされるのは、自然な成り行きであった。むろん、近視眼的にみれば、最適化やマッチングによって、事業体は経済な利益を得られる(マイナスを埋め合わせられる)かもしれない。だが、それを過度に進めれば、どうなるだろう。
甲さんには甲さんに適した情報だけが厳選されて届けられる。乙さんには乙さんにもっとも有益だと思われる情報が最適化されて届けられる。丙さんにも丙さんに最もマッチした情報が届けられる。ただ、3人が受け取る情報には接点も共通項もない。あるコミュニティには、そのコミュニティに向けたお得な情報が、別のコミュニティにはその住民がハッピーになれる情報が、それぞれ絶妙の方法で届けられる。でも、内容が違う。歩道を例にすれば、人はだれがも脇見せず、最短距離を最短時間で歩き、目的地に行く。そんな感じがする。わたしには、薄ら寒い世の中だ。
でも、ふと立ち止まって周囲を見渡してみれば、切実な問題に苦めれられている人もいれば、ずるいことをして暴利をむさぼっているひともいる。そうした問題に、じぶん自身も無縁ではないこともわかる。古いギャグで恐縮だが、そんなの関係ねえ、と通り過ぎることもできるが、すくなくともパブリックな事象が目に入り、自らをもパブリックな存在になりうる場の確保は、民主的な政治過程にとって不可欠ではないか。「パンがなければお菓子を食べればよいではないか?」(マリー・アントワネット)と考えるような人たちと、「生きさせろ!」と異議申し立てをする明日をも知れぬ人たちが、同じ社会に暮らしていることを双方知るべきだし、自己統治に向けた議論も必要なはずだ。
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コメント
「生きさせろ!」と異議申し立てをする人自身によるデモが、マリー・アントワネットな人に対して、「生きさせろ!」と異議申し立てをする人の存在を知らしめることになるのではないでしょうか?路上でデモンストレーションすれば、マリー・アントワネットな人を含む多くの人の目に入ります。
http://mayday2009.alt-server.org/
http://www.youtube.com/results?search_type=&search_query=%E8%87%AA%E7%94%B1%E3%81%A8%E7%94%9F%E5%AD%98%E3%81%AE%E3%83%A1%E3%83%BC%E3%83%87%E3%83%BC2009&aq=f
デモも一種のメディアであり、公共圏(公開性と共同性有り)であり、 「限界芸術」(鶴見俊輔氏)です。これは、畑中さんの紹介されているジェイン・ジェイコブスさんの「歩道」に近い考え方だと思いますが。
もちろん路上を歩くデモだけでなく、「生きさせろ!」と異議申し立てをする人自身によるブログやYouTubeによる情報発信も一種のデモンストレーションとして重要だと思います。インターネットに載せておけば、マリー・アントワネットな人にも検索サイトで引っかかってくる可能性があります。必ずしも旧来の産業としての新聞やテレビの公共圏にこだわる必要はないのではないでしょうか?検索サイトやYouTubeという公共圏に期待はできないでしょうか?実際、最近はデモや集会にインターネットが役立っているようです。
もちろん、検索サイトやYouTubeという公共圏には共同性が薄いですが。
投稿: | 2009年5月 6日 (水) 12時57分
コメントをありがとうございます。仰せの通り、Youtubeや検索サイトは、人々がネットワークを形成するうえでとても有効ですね。マスメディアが供給しないタイプの情報を共有することができますし、諸個人・諸団体をエンパワーさせるものだと思います。
そういえば、首相宅見学ツアーの参加者が警察官に暴力を振るわれて逮捕された映像は、大勢の人が繰り返し再生し、クチコミで広がりました。Youtubeなどが登場する前にも「東芝クレーマー事件」と呼ばれる大企業の暴言が大勢の人にシェアされ、結果的に東芝側が謝罪に追い込まれたことがありました。
ただ、わたしが懸念するのは、アメリカの憲法学者C・サンスティーンが指摘するサイバースペース上の group polarization です。日本語で、集団分極化などと称されるようです。具体的にいえば、1人のマリーアントワネットが別のマリーアントワネットを呼び、さらに新たなマリーアントワネットを招き入れ…… 巨大なマリーアントワネットの固まりが形成され、集団ヒステリーのような現象が発生することがあります。気鋭の評論家の荻上チキさんが『ブログ炎上』で詳述されているように、負の側面があることも認めなければならないと思うのです。
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既存マスメディア=腐敗した特権階級/新興インターネット=市民のカルチェラタン
-----------------------------------------------------------------------------
インターネットが登場してまもないころ、かかる言説が飛び交いました。告白すれば、わたしも80年代後半には少しばかり甘い夢をみていたようなことがありました。しかし、日本のインターネット元年と言われる1995年以降、わたしはかなり懐疑的な立場に立つようになっています。
誤解を避けるために、あえて記しますと、わたしは必ずしもマスメディアを礼賛するようなご都合主義的な物言いはしたくないと思っています。逆に、ネットの好い部分だけに焦点を当てつつ、マスメディアを十把一絡げに「マスゴミ」と罵るのも嫌だなあと思っています。というか、そんなことはどうでもよくて、公共的な空間はいかにして可能か、ということを中心に考えるようになりました。
ところで、鶴見さんの『限界芸術論』はずいぶん前に斜め読みしましたが、本当に良い本で、たくさん刺激を受けました。
投稿: 畑仲哲雄 | 2009年5月 6日 (水) 13時51分
お返事ありがとうございます。
インターネットに負の面があるということは、畑中さんのおっしゃる通りだと思います。
また巨大ポータルサイトなどは事実上、一種のマスコミとして機能していると思います。
公共的な空間には、マスコミやインターネットをめぐる議論にみられるような情報に関する公共的な空間と、デモや公園をめぐる議論にみられるような現実的、人間的な公共的な空間があると思います。この2つ公共的な空間の関係はいかに?
投稿: | 2009年5月 6日 (水) 18時24分
ご丁寧にレスポンスをありがとうございます。
サイバースペースと現実の関係ですが、わたしも詳しくわかりませんが、相互補完的になりうるかもしれませんね。2種類の公共的な空間は、ともにアプリオリに存在していたり、誰かから与えられたりするようなものではなく、一人ひとりの参加者のコミュニケーション的行為によって、善くもなれば悪くもなるような流動的な性質を持っているとみるべきではないでしょうか。なんだか、教科書的で申しわけありませんが、、、
投稿: 畑仲哲雄 | 2009年5月 7日 (木) 12時21分
「最適化の果てに・・・」興味深く拝読しました。
世の中いろいろ考えつく頭の良い人がいるもんだと感心したのですが...
情報を送り出す側が「ピンポイント」とか「効率」とか追求してゆくうちに、市民を「階層化」して、自分にとってプラスにならないと思われるものは「無駄」だから「無いもの」として「切り捨てていく」思考がどんどん強まっていきそうな危うさを感じてしまいました。考え過ぎでしょうか?
投稿: 三鷹の森 | 2009年5月31日 (日) 12時31分
>三鷹の森さま
「考えすぎ」どころか同じ思いです。
ビジネス側が消費者を階層化、クラスター化、数値化、カテゴリー化……していくのと同時に、わたしたちの自己意識もそうした「化」のなかに押し込められているようで。。。
投稿: 畑仲哲雄 | 2009年5月31日 (日) 19時11分