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2009年7月25日 (土)

公衆と自己統治について (備忘録)

8月30日に総選挙が行われることが決まったが、この選挙の争点はなんだろう。自民党は「政権選択」、民主党は「政権交代」をアピールする。それはそれで国民的な関心事であろう。だが主権者が、政治家たちの権力闘争を観戦する「客」であり続ける限り、「観客民主主義」の域を出ない。選挙を自己統治への参加手段のひとつだとすれば、そこに「観客」など存在する余地はないはずだ。しかし、有権者にどこまでの政治的実践を期待できるだろうか。そして、「公衆」をどのように考えればよいだろうか。

W.リップマンは『幻の公衆』(原題:Phantom Public)で、「公衆」への悲観論を展開している。

公衆は関心が未熟で断続的であり、はなはだしい違いのみを見分け、目覚めるのに遅く注意をそらすのが速い、団結することで行為するため、考慮に値すること は何でも個人的に解釈し、出来事が対立しメロドラマ仕立てになったときにのみ関心を抱くということを、我々は当然と思わねばならない。/公衆は第三幕の途中に到着し最終幕の前に立ち去る。おそらくだれがヒーローでだれが悪役か、判断するのに必要なあいだだけ留まるのだろう。(p.45-46)

そこまで悲観する必要があるだろうか。リップマンがいう公衆は、均質な一塊の物質のような印象を与えるが、公衆の中には多様な考えがあり、利害も対立し、いくつもの意見がせめぎあっている。それらを一くくりにして「第三幕の途 中に到着し最終幕の前に立ち去る」ような愚かな観客と決め付けるのはフェアではない。

たしかに、分業化が進んだ世界を生きる公衆の多くは、身の回りの雑事に追われ、その日を生きるのに汲々としている人も少なくない。ひとりの人間が見渡せる「世界」も限られている。「専門家」と呼ばれる人であっても、専門外のことについては意外なほど知識も関心も持っていない。このため、一つひとつ課題に精通した政治家集団が、政党を組織化して政治活動をすることには理由がある。

ただ、政治的決断は「公衆」の一部に利ももたらせば、別の公衆に害ももたらしうる。中間集団(利益集団や圧力団体)はロビー活動を展開し、政党や政治家たちに利益誘導を働き掛けるようになる。議会が利害調整の場と化す。大企業の利益を代表する政党もあれば、労働組合の利益に主眼を置く政党もあり、官僚組織に頼るあまり操作されてしまう政党も出てくる。これでは政治がたんなるバーゲニング(取り引き・駆け引き)の場へと堕してしまう。

バーゲニング政治が常態化すれば、民主的な手続きが形式的に保たれたとしても、公衆による政治参加=投票行動の価値が著しく棄損される。個々の投票者が下した決断(1票)よりも、利益誘導をはかる団体や組織のほうが政治的な決断に有効に働くようになれば、公衆は投票を通じた政治参加への意欲をそがれる。ほんらい「主役」であるはずの公衆が、いきおい「観客」へと後景化してしまう。

むろん、職業的政治家は集票に手を抜くことは決してできない。立候補者は一定の票数を獲得することではじめて政治家になれるからだ。当選のための手っ取り早い手法は、地元への利益誘導(一種のバーゲニング)に血道を上げたり、マスメディアへの露出を増やして分かりやすいスローガンを発したりすることだろう。つまり、有権者という「観客」の前で、魅力的な役柄を演じることである。これが行きすぎると、ポピュリズムへと傾斜する。ポピュリズムは反主知主義の典型で、かならず政治の空洞化をもたらす。こんなふうに考えれば、政治に対する公衆の態度だけを責めるリップマン的な悲観論はフェアとは言えない。

C.シュミットは、〈政治的なるもの〉を、つまるところ「友と敵」と考えた。安易な合意点や妥協点を見いだすのではなく、討議のアリーナで議論を重ねることを政治とみた。シュミット自身はナチスへの積極的な関与が指摘され、戦後すくなからぬ批判を浴びたが、シュミットの「友敵理論」を、ラディカルな民主主義理論へと接合しようとする知的な格闘をC.ムフたちが行っている。「闘技的民主主義」。これと背中合わせの考え方に「討議民主主義(熟議民主主義)がある。いずれも、今日の民主主義の欠陥を乗り越えんとする知識人による闘いといえる。

かかる高邁な理論を持ち出すまでもなく、公衆が自分たちにとっての政治的課題(いわゆるアジェンダ)を世に問う示威行動は古くから行われている。選挙という手続き的な政治参加ではなく、デモ行進をしたり、政治的な活動に参加したりすることだ。P.ブルデューは「世論などない」と述べ、統計的に集計される「世論」を批判し、P.シャンパーニュは「世論(輿論)を作り、象徴闘争に乗り出せ」と説いた。

すべての公衆には「輿論」を作り出せる潜在力はあるが、すべての公衆にそうした規範的な行動を期待できない。ただし、公衆の中には、社会の課題を積極的に引き受けんとする人たちもいる。その典型例は、ノブレス・オブリージュに動かされる慈善家や篤志家であり、今日ではA.ペストフがいう「第三セクター」に位置するNGOやNPOの担い手たちだろう。

NGO/NPOのなかには、一見、政治的なイシューを掲げていないように映る組織がある。たとえば子育てやDV、介護。たしかに20~10年前であれば、それらは家庭内の問題として一般化されなかったかもしれないが、いまや公的な問題となっている。大げさな言い方をすれば、NGO/NPOの数だけ、わたしたちの社会には解決すべき課題があるとということだ。

NGO/NPOは、それぞれが掲げるadvocacy(アドボカシー)と、実践に組み込まれた coproduction(協働)によって特徴づけることができる。advocacyは、「保護,支持; 鼓吹,唱道/主唱者[代弁者]の仕事[職].」などと辞書で説明されるが、市民活動の目標ともいえる政策提言のようなものと理解しておこう。その目標を達成するための実践が、V.オストロムのいうcoproduction協働である。イデオロギーを背景にした市民活動が「○○に反対!」「○○許すまじ」のような権力機構に対するネガティブな主張に傾斜しがちだったのに対し、NGO/NPOは自ら、パブリックな空間にある種の成果物をポジティブに作り出す。このときNGO/NPOは、一定の緊張関係を保つべき行政や政治、市場と協力関係を作り、ともに成果物を生み出す戦略を採る。これをcoproductionと呼ぶ。

町内の困り事から国際紛争の解決に至るまで、今日の政治・経済・社会・文化を語るとき、NGO/NPOの存在を抜きにできない。彼ら彼女らは専門的な知識と行動力を持ち、現実社会に働き掛ける。行政(国家)や市場に手の届かない領域に分け入り、問題解決に取り組む。そうした行動は、公衆自身による自己統治という民主主義に内在する理念と親和する。

だが、ここに素朴な疑問が生じる。政治や行政と中間集団との“癒着”に代わって、政治や行政とNGO/NPOとの“癒着”が生じたらどうなるのだろう。NGO/NPOも変容する可能性を秘めている。というのも、NGO/NPOという概念がなかった時代から、「第三セクター」に位置する集団はあった。宗教や政党、社会事業、メディア事業などのなかには、当初は欲得抜きで始められたものがあった。だが、組織自身の維持拡大や権力闘争に巻き込まれてしまった組織もすくなくない。そうした事実については、留意しておくべきであろう。

議論をもとに戻せば、巨大で複雑な今日の日本社会における国政選挙は、一人ひとりの有権者力はきわめて小さいが、それでもなお政党や政治家が集票を必要としている限り、投票によって政治参加する必要がある(さもなければ、中間団体による組織票の勝負となってしまう)。そして、投票行動だけを政治参加とするのではなく(←集計民主主義)、必要に応じ、NGO/NPOなどの市民的活動に関与し、社会のアジェンダを政治や行政のシステムに接合していくことが肝要となる。自己統治にとって必要な情報は、政治家たちの滑った転んだという演劇リポートではなく、「客席」などなかったのだということを知らしめてくれる情報であり、熟慮と議論を促す情報である。あえて強調するほどのこともなく、当たり前のことではあるが、有権者としては、まずは身近な問題から始めるしかない。

なんともまとまりのない駄文となったが、個人的な備忘録ゆえ、ご容赦願いたい。

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