アカデミズムとジャーナリズム
アカデミズムとジャーナリズムは、〈近代〉が生み落とした不仲の兄弟のようなものなのかもしれない。不即不離をたもちつつ、たがいの作法や思考の筋道を信用できないでいる。鷲田さんが14年前に著した『現代知識人の作法』を読み返し、あらためてそう思った。この本は、アカデミズムとジャーナリズムをまたに掛けて活躍した丸山眞男を強く意識して構想された印象を覚える。書かれた時期が、「社会主義陣営」が消滅していく渦中にあり、一部のアカデミシャンたちにも変革や反省が求められていたという事情もあった。そうした背景を踏まえた上で読まないと、おそらくピンと来ないのだけど、この本を買った当時、よもや自分が働きながら大学院に入るつもりなど毛頭なかったし、当時は「ふふん」と読み飛ばしていた箇所が多い。そしてそれらが今ごろになってじんわり効いてきた。
鷲田さんはまず、立花隆と佐々木毅の文章を採り上げ、アカデミズムとジャーナリズムの文章に、かつてのような明確な差異がみられなくなったと断じる。しかし、両者は方法論において異なっており、その違いをアカデミシャンの立場から省察していく。分かりやすい例として、「ビジネス・ジャーナル」と「ジャーナル・アカデミー」を採り上げる。ビジネス・ジャーナルの表現者として、長谷川慶太郎、堺屋太一、大前研一、山本七平らを、ジャーナル・アカデミー陣営として森嶋通夫、佐和隆光、加藤尚武、岩井克人らを対立させて分析する。そこで見られた差異とはどのようなものであるか。特徴的な記述をピックアップする。
○ビジネス・ジャーナルの思考法
ビジネス・ジャーナリストたちは、固有な「理論体系」=理論型をもたない。正確にいえば、「理論」なるものを拒否する。時代が異なり、対象領域、問題領域が異なれば、それを分析する方法、分析結果を論じる叙述の仕方が変わる、という主張を貫こうとする。(p.41)
「理論」を遠ざけるという姿勢は、動きの取れない「理論体系」なるものを拒否するが、フットワークの軽いアイデア、キイ・ワード、テーゼをとても重要視するのである。つまりは、テオリック(仮説的)な要素を十分に駆使するのである。(p.44)
ビジネス・ジャーナリストには、理論信仰はない。鋭い現実感覚を核心に置く思考を展開する。したがって、現実が変われば、当然、依拠すべきアイデア、キイ・ワード、キイ・フレーズを変えるのである。(p.45)
「現在」のもっとも不確定要素に満ちている部分を扱うビジネス・ジャーナリストたちの判断や予見は、間違うことを避けて通ることはできない(中略)重要なのは、誤らないことではない。誤ったと分かったら、その誤りを合理化するためにじたばたするのではなく、訂正することである。
○アカデミー・ジャーナルの思考法
現在現役で活躍するアカデミー・ジャーナルのリーダーと目される人たちに共通するのは、このように猛威を振るった理論信仰を遠ざけるという姿勢である。理論信仰を遠ざけるという言葉には、可能な限り理論を引き寄せようとする姿勢が込められている。理論信仰ではないが、理論的思考で首尾一貫しようというスタイルをとろうとする。(p.48)
ビジネス・ジャーナリストたちと異なるのは、新しい現実のなかで、旧理論の有効性、無効性を綿密に検討しながら、現実に見合った理論構成をめざすという生き方だ。(p.49)
理論とは、アイデア、キイ・ワード、キイ・フレーズの集合物ではなく、理論的整合性と体系性をもったものである、という前提に立つ。(中略)アカデミー・ジャーナルのリーダーたちは、本質的に、真性の修正主義者である。(p.51)
アカデミー・ジャーナルの世界も、一皮剥けたビジネス・ジャーナルの世界にきわどく接近する、ということになる。(p.55)
ビジネス以外の分野でも、アカデミズムとジャーナリズムの作法の対立構造に、さほどの違いはないはずだ。両者とも、「いま・ここ」にある「現実」をどのように捉え、考え、いかに叙述するかという知的な作業に従事しているにすぎず、どちらの作法に「正/邪」、「優/劣」の区別があるわけではない。
むろん、鷲田さんがいう「現代知識人」には、大手新聞社幹部レベルの書き手は含まれていない。「アカデミズムとジャーナリズムの交差点」の章(p.56ff)で採り上げられているジャーナリズムの巨人は、小林秀雄、吉本隆明、立花隆の3人、対するアカデミズムの巨人は梅棹忠夫、江藤淳、小室直樹の3人である。やたら大きい。わたしのような卑小な存在にとって、雲の上の存在。
それでも、アカデミズムとジャーナリズムの間をふらふらしているため、みずからのアイデンティティや方法論をめぐる泥沼に落ち込む者にとって、本書は(内容こそ古くなってしまっているが)さしあたりの羅針盤となってくれる気がする。
社会人大学院生のなかには、仕事を通じて直面した「現実」の困難を乗り越えるため、アカデミズムの門を叩くケースがあると思う。ただ、ひとたびアカデミズムの世界に首を突っ込むと、(とりわけ理論的な研究をする場合は)実務者としての技法や作法を流用することを事実上禁じられる。これが歯がゆい。なじめない人は「現場こそすべてなのに、彼等は分かっちゃいない」などの捨てぜりふ残して去っていく。去る勇気のない者には、ふたつの作法の間を、ときにつまずき、ときにボヤきながらも、方向を見失わずに行き来するしかないのである。
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コメント
二足、三足とそれぞれの草鞋をきちんと履いてはじめて見えるもの、ことばにできることが確かにあると考えています。それを、アカデミズムにも、現場にも投げ込んでいくしかない。ただ、アカデミズムの側の感受性の麻痺が年々進んでいるという印象は確実に持っています。ジャーナリズムの現場はどうなのでしょうね。
投稿: Sakino | 2009年8月 9日 (日) 14時50分
>Sakinoさま
コメントありがとうございます。
それぞれの草鞋をきちんと履く。これ簡単ではないですね。今のわたしには、まだアカデミズムの草鞋のほうが新鮮なのですが、A草鞋を履いたままJ草鞋の人と話をすると「ああ、なんでこんなにも通じないんだ」と泣けてくることもあります。
投稿: 畑仲哲雄 | 2009年8月10日 (月) 10時10分
先日、知り合いの医師から「現役のメディアの人が、メディア論を勉強し始めると辛いでしょうネェ」と言われました。(苦笑)
私の場合、Jの草履を履いたまんま、草履の履き心地を良くするためにはどうしたらよいのだ、という試行錯誤のひとつがAにある知恵である、というだけなのですが。
それでも、Jを客観的、論理的にAの視点で見ることになると、息苦しい。
投稿: ママサン | 2009年8月10日 (月) 11時21分
>ママサンさま
たしかに、Aの視点でJ見ると息苦しいですが、その逆もキツイですよ。
近接する領域の「イズム」「イスト」ほど、不信、敵意、憎悪の根が深いですからね。
投稿: 畑仲哲雄 | 2009年8月10日 (月) 13時40分
Aにしろ、Jにしろ
動いている現実にどう対応するか、
じゃないんでしょうかしら?
「イズム」も「イスト」も、守っているのは自分、ですよね。
下らん。
投稿: ママサン | 2009年8月10日 (月) 20時25分