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2009年9月13日 (日)

さいきん観た黒澤映画

3rashoumon4yoidoretenshi今ごろになって黒沢作品をまとめて観ておこうというモードになっている同居人につられて鑑賞した。黒沢には「崇拝者」ともいえる熱烈なファンが大勢いて、わたしごときが評する言葉などないし、批判するなんて10年早いことは重々承知の上で、愚かな素人の感想として個人的にいくつかメモしておきたい。

黒澤明監督 『醉いどれ天使』 (東宝、1948)
黒澤明監督 『羅生門』 (大映、1950)
黒澤明監督 『七人の侍』 (東宝、1954)
黒澤明監督 『悪い奴ほどよく眠る』 (東宝=黒沢プロ、1960)

2shichininnosamurai『醉いどれ天使』は終戦直後に撮られた作品で、 21世紀の今日的な感覚で観ると少しわかりにくいと思う。若いヤクザが、刑務所帰りの古いタイプのヤクザに縄張りを奪われる若いヤクザは胸を患っていて、スラムに暮らす医師から助けられるのだが、なぜ医師がそこまでして若いヤクザに目をかけて救ってやろうとするのかは分からない。わたしにとって新鮮だったのは音楽。若き日の笠置シヅ子が踊りながら『ジャングル・ブギ』を歌っていた。ほんとうに可愛い。もう一つは古いタイプのヤクザがギターで奏でていた「人殺しの歌」。ギターを奏でて登場をアピールするなんて!

『羅生門』は黒澤の大映2作目。映像美が評価され、ヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞を受賞したとされる。芥川の『藪の中』の映画化だが、わたしにはそれほどピンとこなかった。芥川がすごすぎるからだろうか。客観的な事実など存在しない。語られる言説と、言説を受け止める者が在るだけ。かつてお世話になった検事さんが、宇宙人が天体望遠鏡で犯行の一部始終を覗いて記録してくれていれば、わたしたちが被疑者や被害者、関係者の言葉を精査する必要はないのに、と話していたことを思い出す。真実は想像される。

1waruiyatsu『七人の侍』は、リメイクの『荒野の七人』を先に観ていた者にはなつかしかった。ウィキペディアの『荒野の七人』には、日米の役柄が解説されていた。リーダー格のクリス・アダムズ(ユル・ブリンナー)は、もちろん島田勘兵衛(志村喬)。サブリーダー的なヴィン(スティーブ・マックイーン)は、片山五郎兵衛(稲葉義男)と七郎次(加東大介)に相当するキャラクター。ナイフ投げのブリット(ジェームズ・コバーン)は、無口の武芸者・久蔵(宮口精二)。ベルナルド・オライリー(チャールズ・ブロンソン)は、林田平八(千秋実)と菊千代(三船敏郎)に。最年少メンバーのチコ(ホルスト・ブッフホルツ)は、岡本勝四郎(木村功)と菊千代。なるほど……。まさに大傑作。

『悪い奴ほどよく眠る』は、シェイクスピアの四大悲劇のひとつ『ハムレット』の復讐譚の構造に、日本の財界と官界の癒着と汚職を投入して作られたそうだ。ただ、どこまでいっても一般的な社会派作品という印象をぬぐえない。第二次大戦の敗戦からこの作品が撮られるまでに、日本でも大きな汚職事件が起こった。たとえば、隠退蔵物資事件=辻嘉六事件(1947)、炭鉱国管疑獄(1947)、昭和電工事件(1948)保全経済会事件(1954)、造船疑獄(1954)売春汚職事件(1957)などがある。でも、『悪い奴ほど』が、実際にあった汚職を示唆しているだろうか。ファンには申し訳ないが、ピンとこない。ただし、伊藤栄樹元検事総長の名セリフ「巨悪は眠らせない」が、この映画のタイトルから語られたのだとすれば、「さすが、クロサワ」と言うべきだろう。

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コメント

黒澤明「大」監督、をどう見るか、ってのはとっても難しい。

正直に言えば、
彼は「大衆映画」の作家であり、いかにハラハラドキドキを創るかに長けていた、製作者だったのかもしれない。
その創り方、が、それまでの日本映画の殻を破ったから、日本で評価される。
複数カメラによる撮影だったり、
アップショットの他用だったり、
ある意味、テレビ的(ライブ感覚に近い映像構成)

海外で評価された「羅生門」は、ある意味、オリエンタリズムへの評価、だったのかもしれない。
様式性・・・・だったり
哲学性・・・・だったり

でも、間違いなく
七人の侍
は、面白い。

投稿: ママサン | 2009年9月15日 (火) 08時54分

>ママサンさま

 なるほど、「ある意味、テレビ的」という表現には大いに納得します。さすが!

>でも、間違いなく 七人の侍 は、面白い。

ですねぇ~(^ ^)

投稿: 畑仲哲雄 | 2009年9月16日 (水) 09時35分

「映像文化」っていうのは、恐らく未だに発展途上で、
活字に比べると、評価が難しい、と思います。

それと、観る側の「同時代性」もあるし。

クロサワを「同時代」で観たのは、デルス・ウザーラあたりから。
すごく正直に言うと、つまんなかった。
ま、こっちがガキだったから、もあるかもしれないけれど、
「同時代」の映画作家として、
あえて、少ない小遣いから
クロサワ作品を観る気にはならなかった。

後に、テクニカルな部分での、
カット割なりなんなりだったり、
様式性だったり・・・は「お勉強的に観る」だけで。

あるいは、クロサワ組の末端にいた先輩監督から「伝説」を承るだけで。

「映像のダイナミズム」をあれだけ表現できた人が、晩年、「スケール」ではないところでの「ダイナミズム」を失っていった悲しさ、が残ってます。

投稿: ママサン | 2009年9月17日 (木) 12時11分

>ママサンさま
 なるほど。同時代性というのは、読者の想像力に頼る活字世界よりも、視覚の領域が大きい映像のほうがパキっと分かりますね。映像文化は「発展途上」というか、現在進行形でどんどん新しくなっていますから。CG使うとなんでもできますし(笑)。
 そんななかで、「椿三十郎」とか「七人の侍」のような作品が後世の作家に多大な影響を与えた功績は大きいとも言えるのでしょうね。

投稿: 畑仲哲雄 | 2009年9月18日 (金) 22時49分

コメントにコメントするのも失礼かも知れませんが
>海外で評価された「羅生門」は、ある意味、オリエンタリズムへの評価、だったのかもしれない。

湾岸戦争を舞台にしたハリウッド映画「戦火の勇気」
板門店を舞台にした勧告映画「JSA」など「羅生門」をベースにした
作品は沢山作られています。「暴行」なんてのもありましたね。

ママサンの仰るオリエンタリズムへの評価であれば
こういう翻案はありえないと思います。

>アップショットの多用だったり、ある意味、テレビ的(ライブ感覚に近い映像構成)

確かに白黒時代(七人の侍なんかは特に)の黒澤映画は印象的なアップショットが多いですね。
(それも極端なくらいのクローズアップ)
ただし、けして多用はしていないです。
少ないからこそ、そのアップが印象に残ったわけで、全然テレビ的ではないと思います。テレビの場合、画面の大きさの問題もありますから、どうしても
アップ中心の画面構成にせざるをえないでのしょうけど。

アップというのはロングショットとの対比がないと全然生きてこないものだと
黒澤映画を見ると良く思います。

投稿: | 2009年9月27日 (日) 22時49分

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