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2009年10月10日 (土)

『フロスト×ニクソン』とインタビュー技法

Frostnixonウォーターゲート事件で失脚したリチャード・ニクソン元大統領は、恩赦によって刑事責任を免れたまま身を潜め、政界復帰を目論んでいた。そんなニクソンに道義的責任を問ったのは、ワシントンでブイブイ言わせていた大物政治ジャーナリストではなく、英豪でトーク番組の司会をしていた英国の小男だったことを、恥ずかしながらこの映画で知った。男の名はデビッド・フロスト。だれも彼を「ジャーナリスト」と見なしていなかった。ピーター・モーガンによる舞台脚本をロン・ハワードが映画化した。事実は脚色はなされているが、本当にあったことで、映画もよかった。

ロン・ハワード監督 『フロスト×ニクソン』 (原題: Frost/Nixon, 2008, 英・米)

社会学者によるインタビューの方法論については多数の書籍が出版され、わたしも桜井厚『インタビューの』などを読んだが、この映画で描かれていたフロストのインタビュー手法は社会学者も参考になるはずだ。それは、洋の東西を問わず多くの記者たち(営業マンも同じだろうな)が体験的に知っている手法。つまり、相手から恐れられるのではなく、間抜けで阿呆で「こいつなら御しやすい」と錯覚させることだ。

映画のストーリーは、手に汗握るハラハラドキドキの心理劇だが、本当のところはフロストの作戦通りに展開したのではないかと思われる。野球に例えると、どうみてもリトルリーグにしか見えないフロストが、百戦錬磨の大投手ニクソンに挑むようなもの。ニクソンの投げる第1球にフロストは目を回し、バットを振ることもできず悄然と座り込む。次の球もフロストは手も足も出ない。第3球はかろうじて球にバットが触れてファウル。ニクソン圧勝の展開で投げられた第4球に対し、フロストのバットが快音を響かせる。

ネタバレになるので内容は書かないが、フロストはすでに公表されている資料を入手し、ニクソンの弁明との矛盾を突く。不意打ちのようなフロストの問いに口ごもるニクソンの表情をカメラは決して逃さない。フロストが追い打ちをかけた言葉が「国民が聞きたがっているのは、次の3つです」だった。

ニクソンの法的責任はジョンソンによる恩赦で消滅していたが、国民に対するアカウンタビリティは消えていなかった。それを引き出すという大義を前に「ジャーナリスト」と見なされていなかったフロストは、ニクソン陣営に大金を渡してインタビューを申し込むしかなかった。その行為は「チェックブック・ジャーナリズム」と見下される。だが、米国ではまったく無名で、見るからに軽そうな一介のトーク番組の司会者が前大統領に面会を求めるには、それしか手法がなかった。主流ジャーナリズムの規範から逸脱することで、フロストは相手により低位に見下されることにまんまと成功したのかもしれない。

この映画のもう一つの見どころは、社会階層間の闘争の側面。フロストは「二流」を装うが、じつはケンブリッジ大学出身で優秀な人物。上流階級の出身でないため見下されてきたフロストを、ニクソンはじぶんの出自と重ね合わせる。ニクソンも上流階層の出身ではなく、努力に努力を重ねてきたたたき上げの政治家。クエーカー教徒の母親による厳しいしつけ。父親が事業に失敗したため中流階層以下の暮らしの中で、軍隊に入る。非凡な才能を持っているのに、貧しい家庭に生まれたために味わう屈辱を、ニクソンは痛いほど知っている。屈折した体験は、二人の間にラポールを構築してしまう。とってつけたような宿業のエピソードだが、みょうに泣かせる。

ちなみに、ロン・ハワードといえば、わたしが高校生のころに見ていた「ハッピー・デイズ」というドラマの主人公で、リッチーというへなへな高校生を演じていた。ポッツィーという似たようなダメ高校生の友だちと、くだらないトラブルを起こしては、フォンジーというチョイワル少年に助けてもらったりする。こんな言い監督になるとは。

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