『恋はデジャ・ブ』にみる大乗仏教
〈きのう〉は本当に存在したのか。〈あしは〉た本当にくるのか。子供時分、そんなことを考えているうちに恐くて眠れなくなった(結局眠ったけど)。朝、目が覚めても、まだ夢の中にいるんじゃないかという疑いが残った(夢の中で目が覚めたことは何度もある)。じぶん以外の人間は本当に存在するのだろうか。じぶんの目の前にいる彼ら彼女らには、じぶんと同じような心や意識はあるのだろうか。もしかすると、機械仕掛けで動いているだけの存在じゃないだろうか。そもそも、じぶん、って何者なんだろう。もしかしたら、神のような超越的な存在が生み出した世界の登場人物じゃないだろうか・・・・隠れた名作『恋はデジャ・ブ』を観ながら、子供時分にわたしを悩ませた時間や存在について問いを次々と思い出した。(この映画には仏教的なものは一切描かれていません)
ハロルド ライミス監督 『恋はデジャ・ブ』 (原題: Groundhog Day, 米, 1993)
Zito, Angela (2009) 'Groundhog Day, Again', The Revealer, New York University.
Gammage, Jeff Gammage (2007) "The enlightened 'Groundhog'", Buddhist Channel.
『恋はデジャ・ブ』はハリウッド映画によくあるラブコメではあるが、その設定や物語は深遠な哲学に通じる。映画評論家・町山智浩さんは、この映画を「ニーチェもびっくり」の永劫回帰をうまく説明している名作と絶賛し、宗教人類学者でNYU宗教メディアセンターのAngela Zito博士は大乗仏教の思想を表していると論評している。まったく同感。この作品はおそらく、一部の人には子供時分の謎や疑問を思い出させてくれるはずだ。
ビル・マーレーが演じる主人公のフィルは、四〇代半ばのうだつの上がらない地方局のお天気キャスター。彼はペンシルバニア郊外パンクスタウニーで毎年2月2日に行われている「聖燭節(グラウンドホッグ・デー)という行事の取材にやってきた。彼は去年も、一昨年も,その前の年も、この取材をさせられていて、かなりうんざりしている。人口6000人余りの町は退屈そのものだし、行事も代わり映えしない。まったくやる気が起こらない。
行事というのは、冬眠から覚めたウッドチャック(モグラみたいな生き物)が、春の到来がいつごろになるかを人間に告げるという他愛のない内容。ウッドチャックの名前は主人公と同じフィル。毎年同じ行事取材を命じられる主人公フィルと、毎年行事に担ぎ出されるウッドチャックは、同じ境遇にあるわけだ。
行事の舞台を背景に「立ちレポ」をしたフィルは、スタッフともにピッツバーグに戻ろうとするが、吹雪に遭いパンクスタウニーの町にもう一泊することに。不機嫌なフィルはスタッフからの夕食の誘いをにべもなく断って、B&Bでひとり寝る。だが翌朝、目が覚めたら、きのう(2月2日)とまったく同じ一日が始まった。B&Bのおばさんの言葉も、路上で偶然再会する高校時代のクラスメートのセリフも、会場でスタンバイしているスタッフからの呼びかけも、行事で語られる一言一句がすべて〈きのう〉と同じ。「きょうは2月3日だろ?」と訊ねても「え?2月2日じゃん」という答えしか帰ってこない。つまり、フィルに〈あした〉はやってこなかった。次の日も、そのまた次の日も,延々と同じ2月1日の繰り返し。
妙なことは、フィルには〈きのう〉の記憶があるのだけど、フィル以外の全員は2月2日を繰り返しているという意識がない。フィルだけが「2月2日」の繰り返しのなかに閉じ込められている。絶望した彼は何度も自殺を試みるが、気がつくとB&Bのベッドで目が覚める。パンクスタウニーの街は、春の行事にすこし浮かれている。明日を生きることも、死ぬこともできないフィルは、絶望のどん底に突き落とされる。
この映画はラブコメなので、いつかフィルは2月2日の繰り返しから解放され、恋人と一緒に2月3日の世界に移行してハッピーエンドを迎えるのだが、それまでの間、映画の中のフィルは永遠の「2月2日」なかで悪戦苦闘し、迷走し、失敗を繰り返し、奮闘する。
映画の冒頭30分ごろに、すっかり落ち込んだフィルが酒場で知り合った地元の肉体労働者たちに訊ねる。
What would you do if you were stuck in one place and every day was exactly the same, and nothing that you did mattered?少し間を開けて、一人の男が酒を飲んでいるヒゲの男が寂しそうにつぶやく。
That about sums it up for me.このさりげない場面で、じつは多くの人々が退屈な繰り返しの日常を生きているということが示唆されている。ここに、ニーチェのいう永劫回帰であり、仏教の輪廻に通じる世界観が提示されているような気がする。
ちなにみ、ニーチェの永劫回帰は、こんなふうに説明される。
【永遠回帰】(ewige Wiederkunft) 同じものが永遠に繰り返してくること。生の絶対的肯定を説くニーチェ哲学の根本をなす象徴的表現。(広辞苑)
これでは何のことか分からないので、わたしなりの理解でいえば、ニーチェはキリスト教的な世界で築かれてきた、「主体」「意識」「理性」「科学」「宗教」・・・といった概念をすべて疑った。「神は死んだ」という言葉や、「超人」の思想は、超越的なものに左右されるのではなく、毎日を善く生きようという生の肯定にほかならない。わたしたちは「破滅」や「救済」に向かって直線的な時間を生きているのではないし、神や悪魔が書いたシナリオ通りに人生を演じさせられているのでもない。それらは世迷いごとにすぎず、人間らしく生きようじゃないかという考えが底流に流れている。
一方、大乗仏教の思想は、こんな感じ。
【大乗仏教】紀元前後頃からインドに起った改革派の仏教。従来の部派仏教が出家者中心・自利中心であったのを小乗仏教として批判し、それに対し、自分たちを菩薩と呼び利他中心の立場をとった。東アジアやチベットなどの北伝仏教はいずれも大乗仏教の流れを受けている。(広辞苑)
仏教思想は、人が生と死を繰り返す「輪廻 samsara, reincarnation 」からの解放(解脱 nirvana )を求めることを主目的とする。小乗の坊主はじぶんの輪廻を断ち切るために出家して修行をするが、それはあまりに自己中心的だと批判するのが大乗の発想。俗世間から離れた僧院に引きこもってお経むよりも、欲望や罪悪に満ちた世界のなかに分け入り、じぶんが解脱するための修行よりも、悩める多くの人々の生を肯定しながら生きよるんだという、すこし過激な宗教実践ともいえる。
この映画は、そうした観念的な深みに落ち込まず、あくまでもコメディーであり続ける。フィルは2月2日に閉じ込められてしまったが、その日に何が起こるかを事前に知っていて、他人をだますことができる。現金輸送車の死角を観察して大金を盗んだり、目をつけた女性から事前に情報を聞き出しておいて、ある日パーフェクトに口説き落としたり、じぶんを「神」だと言ってテレビ局のスタッフを驚かしたりする。超越者として振る舞うことができるフィルだが、幸せだとは思えない。
最終的にフィルが取った行動はネタバレになるので書かないが、まさに大乗仏教的でいう菩薩の道を歩む。フィルは永劫回帰を肌で知り、はからずも解脱の域に達した。もちろん、この映画を観たわたしとしては、そんなハッピーエンドを信じられない。フィルが「やった!2月3日だ」と喜んだのもつかの間、またあの悪夢のような2月2日の朝を迎えない保証はどこにもない。そんな想像をしてしまうのは、わたしが解脱からほど遠い人間だからだけど。
町山さんによれば、フィルはこの物語の中で、3000回(8年あまり)も同じ日を繰り返していることになっているそうだが、病的なデジャ・ブや独我論、あるいは統合失調症と診断された人たちは、フィルどころじゃない苦しみを味わっているはずだ。幼いころ独我論の入り口でウロウロしたことがあるわたしには、そうした人たちの不安や恐怖がほんのすこしだけわかるような気がする。
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