アラン・ムーア 『フロム・ヘル』読了
コミックで初めてヒューゴ賞に輝いたアラン・ムーア『フロム・ヘル』(みすず書房)をようやく読了。エディ・キャンベルの陰鬱な作画とムーアが紡ぎ出す衒学的な世界や登場人物の科白に目まいを覚えた。すでに「切り裂きジャック事件」に関する知識を持つ人ならもっと楽しめただろう。正直いうと、わたしには知識が乏しすぎた。ただ、ひととおり読み終えて、けっこうな量の補遺があることに気付き、それをパラパラ眺めていると、1888年のロンドンで発生したこの事件がいかに異様で、いかに多くの人の関心を引いたかが分かる。エヴァンゲリオンの謎解きどころではない。
アラン・ムーア, エディ・キャンベル『フロム・ヘル(上)』(柳下毅一郎訳, みすず書房, 2009)
アラン・ムーア, エディ・キャンベル『フロム・ヘル(下)』(柳下毅一郎訳, みすず書房, 2009)
アラン・ムーア『フロム・ヘル』日本語版オフィシャルサイト
Jack the Ripper - Wikipedia, the free encyclopedia
事件を突き放して考えてみる。切り裂きジャック事件の被害者は少なくとも5人。近年日本で起こった刃物による連続殺人「秋葉原事件」や「付属池田小事件」よりも少ない。もちろん、切り裂きジャックの被害者はもっといる可能性があるようだが、事件から約40年後に発生した第一次世界大戦(The Great War、1914~18)や第二次世界大戦(World War II、1939-45)に比べれば、誤差の範囲といえる。
なぜ、この事件が多くの人の記憶に焼きつき、語り継がれてきたのか。それは、(1) 迷宮入りしたこと、(2) 遺体が解剖され臓器が盗まれるなど猟奇的であったこと、(3) 新聞社に犯行声明が送られた史上初の劇場型犯罪であったこと、(4) 被害者たちが同情を喚起する社会的マイノリティであったこと--などが考えられる。また、臓器摘出の事実から犯人が解剖学者や医師であった可能性や、王室スキャンダルの可能性など、大衆の好奇心をかき立てる要素に満ちていたこともあるのだろう。
わたしが最初にこの事件を知ったのは、中学の歴史授業で教員から「この世で最も恐ろしい事件」と教えられたことだ。当時は何が恐ろしのかさっぱりわからなかったし、性的な要素を含むためか教員も詳しく教えてはくれなかった。その後もこの事件については詳しく知る機会がなかったが、今回ムーア作品を読み、ようやく興味をそそられた。ただし、「この世で最も恐ろしい事件」とは思わない。もっと恐い実話はいくらでもあるし、じぶんの問題として受け止められる要素に欠けるからだ。
わたしにとって切り裂きジャックは、欧米では広く知られている事件なので、一応知っておいたほうがいいかな、という程度というのが正直なところ。ただし、事件の背景には興味を引かれる。この事件をめぐる議論が、一種の「公共圏」を形成したのではないかと考えられるからだ。19世紀終盤のロンドンでは、近代社会の形成にともない、社会階層の別なく、ガセネタや妄想ネタも含めて、だれもが自由に事件を論じることができる言論空間がかなり成熟していたと考えられる。大衆相手のゴシップ新聞社が、扇情的な報道をして部数を競い合ったであろうことは想像に余りある。
ビクトリア朝末期のロンドンの貧民街で、新聞を読む「大衆」がどういう存在だったのか、わたしには詳しく分からない。ムーアの『フロム・ヘル』に登場する「大衆」も、「下層」の人が多く、みなひどく貧しく、粗野で、猥雑で、乱暴である。大衆というよりも貧民という言葉がふさわしい。かなりステレオタイプな描き方がなされているため、まるで貧乏人には心が宿っていないような印象さえ植え付けられる。
階層がすこし上にあるアーバライン警部たちは、その内面で近代と前近代が葛藤する近代人として描かれている。たとえば、アーバラインはある娼婦には惹かれ、階層を越えた恋愛への発展を予感させるが、他の娼婦にはきわめて乱暴な言葉をぶつけたりもする。科学主義を信奉して合理的な思考をするかと思えば、霊媒師のリーズを信用して捜査をしたりする。アンビバレントな彼の心理は、わたしがもっとも感情移入しやすい人物であった。
さらに、「犯人」とされるガル医師は、古代建築やキリスト教以前の宗教にも通じ、医者としても学者としても超一級の卓越した人物として活写される。上流階級の知識人であるばかりか、フリーメイソンのメンバーで、英国王室に呼ばれる医師でもある。ただしガルは、犯行を繰り返していくうちに、人智を超えた精神となる(気が変になる)のだが、教養人と狂人との境目を歩きつづけたという意味で、現代社会の病理と共通するものをもつ普遍的な存在かもしれない。ネタバレになるのでこれ以上、書かないほうがよいだろう。
ムーアは、史実についてかなり詳しく調べていて、1888年当時のロンドンの下層社会を知るうえでも内容の濃い作品といえる。ただし、つっこめるほどの教養がわたしにはない。残念。
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