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2010年1月 3日 (日)

軽い軽蔑

社会人大学院生になって2010年で7年目を迎える。今では信じられないことだが、6年前の入学当初、わたしは学問自体に大きな期待も抱いていなかったし魅力も感じていなかった。本格的に面白くなってきたのはDに進んでから--D進学というイニシエーションを経て、ようやくジャーナリズムとアカデミズムの関係を冷静に見つめることができるようになったように思う。年があらたまったのを機に、ジャーナリズムとアカデミズムの微妙な関係について、考えを整理しておきたい。

昨年、某学会で某教員がジャーナリスト経験のない学者と学門経験のないジャーナリスト教員の間に「軽い軽蔑がある」と話した。冗談めかした口調だったが、核心を突いているように思えた。この問題は、表だって論じるのがとても厄介だし、だれも積極的に触れようとしない。下手なことを言うと、すべて跳ね返ってくるからだ。だけど、多くの人が薄々感じていることは間違いない。

わたしはこれまで多くの会社員ジャーナリストに大学院を勧めた。だが、反応はおしなべて良ろしくなかった。理由は容易に想像がつく。ジャーナリストの側には「マスコミなんて学問の対象かよ(実践の対象という意味)」という、どこか見下したような眼差しがあるのである。「○○サンは○○大のセンセイになったって話だけど、マスコミ教えてるんっだってよ」「マスコミって、法律とか医学とかに比べたら、学問としては、ちょっとねぇ」・・・・・・これらの科白は、多くの場合、含み笑いとともに放たれる。

一方、生粋の学者・研究者はといえば、元ジャーナリスト教員を(多くの場合)研究者仲間とは思っていない。聞くところによれば、昔の手柄話にはじまり、大物政治家との交友自慢、業界擁護の吹聴、かつての勤め先への悪口・・・・ およそ学問とは縁のない授業がおこなわれているということを学生からよく聞かされた。パーソンズやハーバーマスを原著で読み、国際学会で他国の研究者と丁々発止やりあっている研究者からすれば、こういう手合いとは一緒にされたくないのだろう。それはよく分かる。

ふだんは互いに「やあ、先生」「こんにちは、先生」などと呼び合っていても、元ジャーナリスト教員は「彼は取材の厳しい現場を知らないからダメだ」と陰でののしったり、生粋の学者・研究者は「あのセンセイは学位をお持ちじゃないから」「ただの人寄せパンダだから」と見下したりしている。軽い軽蔑どころか、はげしく憎み合っているケースもあると聞く。

両者の溝を埋められるのは、ジャーナリストとして名を遂げたあとPh.D保持者になった人であろうか。あるいは、Ph.Dを取得したあとジャーナリストになった人であろうか。おそらく違う。わたしの想像だが、両者をつなぎうるのは、両者と妙なしがらみをもたないフィールドにいる人々だ。アカデミズムとジャーナリズムのどちらにも与せず、両者の権威主義を笑い飛ばせる人々。ことしも、そうした人々としっかりコミュニケーションしたい。わかったふうな物言いをする人は軽く軽蔑することにする。

「ジャーナリストになりたいと思ってあの先生のゼミに入ったのに、業界がいかにダメか、経営者がいかに無能かを延々聞かされていると、誰だって就職する気がなくなりますよね」「あの先生のマスコミ批判、最初はすごいなあと思っていたんですが、あとで振り返ると、自分がいかに優れたジャーナリストであったかを延々としゃべってるのと同じなんですよね」。・・・・これらは学生や元学生から聞かされた生の声である。一番の被害者は学生であるということをあらためて心に刻んでおきたい。

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コメント

初めまして。来春から都内の大学院で、ジャーナリズムを専攻することになっております学部4年(男)です。
『新聞再生』は非常に興味深く読ませていただき、卒業論文の材料にもさせていただきました。

「ジャーナリスト経験のない研究者」と「学問経験のない元ジャーナリスト教員」の関係は、少々不謹慎ですが「面白い」話ですね。
結局、どちらもジャーナリズムの可能性をつぶしているように思えます。なぜなら、どちらもどこか権威主義的な、あるいはエリート主義的な思想を捨て切れていないからです。
ジャーナリストも大学教授も、その肩書きの以前にあらゆる人が「市民」であるということを忘却している気がしてなりません。

投稿: lovemar | 2010年1月 4日 (月) 00時15分

こんにちは。私が修士で行っていた大学院はジャーナリズム出身の教員が複数名いらっしゃり、微妙な雰囲気がなんとなくわかります。修論でわたしは実態調査をしたのですが、現場でこういう課題があると考えられるので実態調査をします、と中間報告会で発表したら、ジャーナリズム出身の教員から、「課題があると思うのなら、なぜそれの対策をしないのですか」という指摘を頂きました。あとで研究者肌の教員が、「こういう課題があるというのが仮説なのに、何を言ってる!」と。
いま思うと実践と研究の違いだなぁと思います。現場はスピードが必要な時も多いけど、研究は一定の時間を要する。現場は経験と勘に流れがちだし、研究は理論に流れがち。バランスをとれるためにはよっぽど気をつけないと思います(自戒)。

投稿: 青木みや | 2010年1月 4日 (月) 08時13分

アカデミズムも広くって、さまざまな分野があり、ジャーナリズムも広くってさまざまな分野がある。アカデミズムの内部のさまざまな分野をちゃんと繋いできたアカデミシャン、ジャーナリズム内部のさまざまな分野をちゃんと繋いできたジャーナリストだったら、ちゃんとお互いを認めて議論が成り立つはずなのですが、現実には、タコツボ型研究者とタコツボ型ジャーナリストが大多数なのでしょうね。だから、相手を軽蔑して、コトをすませてしまうことになる。実際には、タコツボ型研究者同士のコミュニケーションも、タコツボ型ジャーナリスト同士のコミュニケーションもうまくいっていないわけですが、他の非タコツボ型の誰かが繋いでいるからそれぞれのギョーカイ内部の齟齬が表面化することなく、それぞれのギョーカイが回ってきたのが、ギョーカイがちがうと、個人の力量不足が一挙に表面化するということなんだろうと思います。

どっちのギョーカイも、繋ぐタイプの力量ある非タコツボ型人材が減っている(その結果、どっちのギョーカイもそれぞれ地盤沈下している)というのは私の杞憂でしょうか。

投稿: Sakino | 2010年1月 4日 (月) 09時18分

結局

自分のギョウカイが一番エライ、って思い込んでいる方々が悪い、ってことかな。

ただ、
テレビ画面にたくさん出ているから、社説を何本書いているから、で、「ジャーナリスト」をアカデミズムの世界にお招きしている、ってこと、ありませんか?
ま、「ジャーナリスト」にとっては、ある意味、「アガリ」の道を用意してくださっているってことかもしれませんけれど。(ほとんど「天下り状態」ですわ。「学問しよう」ってことで大学にゆくんじゃないでしょ)

ま、現場にいる実感としては、アカデミズムの世界にいる方々は、
純アカデミズムの偉いさんたちも、元ジャーナリストの偉いさんたちも、「今」と戦うためには何も役にたっていない、ってことです。

投稿: ママサン | 2010年1月 4日 (月) 16時05分

>lovemar様
 はじめまして。拙著を買っていただきありがとうございます。今後ともよろしくお願いします。
 ともに「市民」という構え方は、たしかに大切ですね。同感です。
 自分の職業や所属先に誇りを持つことは自然な感情だと思いますし、それを否定することはできないと私は考えています。あと、ジャーナリスト経験のない研究者と学問経験のない元ジャーナリスト教員の中にも、素晴らしい先生がたくさんおられることも付け加えておきます。
 機会があれば、どこかでお目にかかりましょう。

>青木みや様
 お久しぶりです。お元気ですか。
 教員によって指導内容が異なることは、まあ致し方がない部分もありますが、、、、なるほど、そういう経験をお持ちでしたか。うむむむ。指導を受ける側も、楽ではないですね。

>Sakino様
 こんにちは。
 どっちのギョーカイもそれぞれ地盤沈下している・・・・という「杞憂」は、多くの人が共有可能だと思います。むろん、わたしも。
 タコツボ社会を研究や取材の対象にできるのは、やはり第三者的な立場にいる人なのでしょうね。自分の座っている座布団をひっくり返せる人は、それほど多くないと思いますし。

>ママサン様
 こんにちは。新年早々、キビシーですね(笑)。
 「純アカ」や「元ジャ」の個々の人たちの問題というよりも、構造的な問題に行き当たるということでしょうか。あるいは、文化の問題が大きいのかも。

投稿: 畑仲哲雄 | 2010年1月 6日 (水) 16時33分

こんにちは。
つらつらと、読んでまして、一度読んでいたのです‥。

じつは、このような場に遭遇して、この記事と重なって‥
なんだかおかしくなったというか。なんというか。
スタンスを持って話すのは素敵ですが
日本人‥‥というものはつくづく議論が下手なのだと自分も含めて感じました。
私の場合は無知からくるものですが‥。
でも、いろんな話を聞けて面白かったです。

投稿: mine | 2010年1月26日 (火) 17時37分

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学者とジャーナリストは似ている気がする。どちらも物事を深く調べ、それについて文章を書く。片や論文、片や記事。でも、この両者って、微妙に仲が悪いらしいですよ。 昨年、某学会で某教員がジャーナリスト経験のない学者と学門経験のないジャーナリスト教員の間に「軽い軽蔑がある」と話した。 ジ...... [続きを読む]

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