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2010年1月 7日 (木)

秀作 『未来を写した子どもたち』

Bornintobrothelsドキュメンタリー『未来を写した子どもたち』を観ていて、不意に横面をひっぱたかれたような衝撃をなんども感じた。こんなことを書くのは初めてだが、すくなくともジャーナリズムをまじめに考えている人には、本作を観ることを強く奨めたい。いい意味で「ジャーナリスティック」という言葉が似合う作品だと思うからである。こんなにも直球ど真ん中のノンフィクションがマスメディアでさほどの話題にのぼらなかったのは、原題が「売春窟に生まれて」と直訳されることと、R指定であったためかもしれない。だが、子供たちにも見せたい作品である。

ロス・カウフマン; ザナ・ブリスキ監督 『未来を写した子どもたち』 (原題: Born into Brothels, 2004, 米)
未来を写した子どもたち 公式サイト http://www.mirai-kodomo.net/
Kids with Cameras (http://kids-with-cameras.org/)
zana briski's site (http://www.zanabriski.com)/
'From Sonagachi to SoHo' by Rega Jha, Nov. 9th 2009 nyunews.com

人間というのはジャーナリスト的な存在だという言葉を残した哲学者が日本にいたが、英写真家ザナ・ブリスキと、彼女と一緒に映画を作ったロス・カウフマンはまごうことなきジャーナリストだと思うし、ブリスキから手ほどきを受けた子どもたちが撮る写真もジャーナリスト的である。また、この作品を伝達しようとする行為もジャーナリスト的であろう。

現場はインド東部コルカタ(カルカッタ)にある巨大売春地区 (Red Light District) ソナガチ。そこには数百の売春宿が密集し、1万人を超えるセックスワーカー家族と一緒に働いている。職業は世襲である。先祖代々、売春で生計を立てている世帯では、子供も売春をするほかない。働ける年齢になるまでは、早朝から深夜まで井戸の水を汲まされたり、炊事をさせられたり、子守をさせられたり、とにかく四六時中コキ使われる。映画の中で、子どもたちが親から口汚く罵倒される場面が幾度も出てくるが、その親たちも同じようにして成長している。

子どもたちは親たちがセックスワーカーであることを知っている。親のもとを訪れる客たちから「おまえはいつから客を取るんだね」と尋ねられる少女、母親が働いているあいだ屋根裏で凧を飛ばして時間をつぶす少年、いつ客を取らされるのか心配している少女とそのボーイフレンド、薬物中毒になった父の横顔を見つめ、それでも父親を敬愛していると語る子供・・・・。彼ら彼女らはソナガチという場所に生まれてしまっただけの、何の罪もない存在である。なのにかくも過酷な人生を決定付けられている。この現実を目の当たりにした近代人は、だれもがジャーナリストにならざるを得ないのではないか。

去年読んだ『サバルタンは語ることができるか』では、白色男性が有色女性を有色男性から救出するという大義と、植民地侵略の大義が絡まる難義な議論であった。ソナガチのコミュニティで長い年月を通じて共有されてきた人々の習わしは、英国で育ちNYで活躍する写真家の倫理観とは相いれない。子供たちの親にすれば彼女らの行為は見当違いのお節介であり、またしても英国人どもの愛だの善だのの押しつけに映ろう。そして、ブリスキらはそんな親たちを、愚かで、粗野で、愛を欠き、人倫にもとる存在として描かざるを得なくなり、ブリスキ自身を女神か救済者に映し出してしまう。そもそも、ブリスキらが地元の言葉を話していないことに違和感を感じる人も少なくないかもしれない。

インドに詳しい外国メディア特派員の多くはソナガチには不用意に近づかないかもしれない。地元ジャーナリストも、この地区にニュース価値を見いださないかもしれない(それは日本における昔ながらの遊里と同じ構造の問題をはらんでいる)。社会学者なら参与観察してソナガチを慎重に記述するかもしれないし、すでにそうした論文はあるのかもしれない。たが、ブリスキとカウフマンはこれらのいずれの立場にも立つことなく、眼前の子どもらに己の方法で深くコミットしないではいられなかった。それは、「弱者」を発見し、固定し、彼ら彼女らを西欧化させる契機をはらみつつも、不意にぶつかってしまい、彼女ら自身も身動きがとれなくなったったのではないか。

興味深かったのは、ブリスキたちが子どもらに教育を受けさせるため、子どもたちが撮った写真を販売していることだ。これによって売春窟の子どもたちの就学支援を持続的なものにできる。サステイナブルなビジネスは、バングラディッシュでムハマド・ユヌスがおこなったマイクロファイナンスを彷彿とさせる。ビジネスを介在させることで、たんなる憐憫の情や贖罪を超えたパートナーシップが可能になるような気がしないでもない。

子供に就学の機会をあたえる社会運動まで実践してしまったら、もはやジャーナリストじゃないと言う人もいるかもしれない。だが、社会を変えていこうとする彼女らの営みこそジャーナリストに求められる使命ではないかという反論も成り立つ。いずれにしても、議論を巻き起こすドキュメンタリーは良いドキュメンタリーであり、多くの人にお奨めしたい。



追記
この作品を観て、なにか似たような物語をかつて読んだような気がしていたが、ようやく思い出したのでメモしておく。

ひとつは、マイク・レズニック『キリンヤガ』(内田昌之訳、ハヤカワ文庫、1999) の第2話「空に触れた少女」である。12歳の少女が利発さを発揮し、知識を付ける物語で、あまりに切ない内容であった。

もう一つは、P.K..ディックの短編で、車輪の溝掘り職人の倅が階級を飛び越える公的な仕事に就く試験を受けて点数は足りたのだが、やはり階級を飛び越えて出世した官僚の配慮で不合格にさせられ、父と同じ車輪の溝掘り職人になるという話。タイトルと収録されている署名は失念した。

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