鼎談・広告とはなにか
植田さんによると、「広告の時代」と呼べるのは1960年代から80年代までで、いまはモノを売る画一的で膨大なメッセージとしての存在価値を失っている。「ネットが新聞を抜くとか、テレビがどうなるといったことを論じるのは、あまり意味がなくなっているのではないか」(p.57)という見方は、とても納得できる。裏を返せば、媒体社も広告と社会の微妙な変化に鈍感であったともいえるのだが。
ただし、疑問もある。植田流の時代区分によると、「2010年以前に広告コミュニケーションの時代は終わって、マーケティング・コミュニケーションの時代に入ってきている」(p.58)そうだが、ここまで断定して語れるのだろうか。2010年に入って数ヶ月の時点で、わたしたちの身の回りにそれほど多くの材料はないと思う。
そのほかためになったのは、家電芸人について触れていた箇所とグーグル的世界がもたらすものへの警鐘。お笑い番組で家電芸人の芸が人々の消費行動に少なからず影響していることに触れて、水島さんが「こういう消費行動自体が、広告受け取って、それで店頭へ行って判断するのではなくて、そういう枠ではつかみきれないような動きが出ている証左ではないでしょうか」(p.60)と投げかけると、正木さんが「広告のメッセージは、定型化し、パターン化しているから、なんだが嘘っぽい」(同)と断じている。
定型化しパターン化しているメッセージを“最適化”して伝える仕組みでいえば、Googleの Ad Sense がその極右に位置すると思われる。そう考えれば、Ad Senseの広告の中身は、「広告の時代」の焼き直し的な古臭いものと定位できる。水島さんの「自分の好きな狭い世界だけで生きていて幸せだったらいいという人たちを再生産するだけの道具にしかなっていない」(p.63)という警句にも大いに納得できる。
パブリックな空間に放出されたテキストや映像音声としての「広告」に、ある種の価値を共有する人たちが互いに繋がったり、出会ったり、討議をしたり、合意形成したりするという機能を持たせることができるのか。根底から広告をとらえ直そうとする議論は、物流のアナロジーではなく、やはり公共圏論や社会空間的な概念を召還するのかもしれない。
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コメント
>水島さんの「自分の好きな狭い世界だけで生きていて幸せだったらいいという人たちを再生産するだけの道具にしかなっていない」(p.63)という警句にも大いに納得できる。
これって広告に限らないポイントですよね。心地よい空間を見つけ、なお開いてつながっていくようなプロセスにならないと、ネットもITも、あまり面白くない。メディアに関する議論は、オールドだとか、ニュー(とは言わないか)だとかの線引きが強すぎて、実効性が担保できそうにない。
ソーシャルメディアについての発言も同様。実現すべきプロセスを可能にするには、古いとか新しいとか、新聞は「断末魔」だとか、そういうことだけを語っても、何も生み出せないような気がする。
投稿: schmidt | 2010年2月16日 (火) 12時40分
>schmidtさん
schmidtさんがおっしゃるとおり、水島先生の指摘はコンテンツ全般に言える話ですね。軽い気持ちで手にした雑誌ですが、対岸の「そもそも論」の表層部分がわかってよかったです。
きょう『夕日は沈まない』(ミネルヴァ書房)を半分ほど読みました。CGMとは違う意味で、新聞はもともとソーシャルなメディアなのだなあと驚嘆しました。この本については、またあらためて。
投稿: 畑仲哲雄 | 2010年2月16日 (火) 20時41分