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2010年3月21日 (日)

コミュニケーションの共時性と通時性(備忘録)

(マス)コミュニケーションを論じるとき、共時性synchronicityと通時性diachronicityという単語が用いられることが、たまにある。この言葉、もともと言語哲学者のF.ソシュールが厳格に区別した「通時言語学linguistique diachronique」と「共時言語学linguistique statique」の概念に遡るが、わたしはその方面には詳しくないため、俗っぽく(というか粗っぽく)「共時性」と「通時性」という言葉を使っている。(トンチンカンかもしれないです)。

コミュニケーションには、通時的な側面と共時的な側面とがある。あらゆるコミュニケーションは、まずは共時的である。誰かが発した言語が、目の前にいる人に伝わり広がっていく。マスコミュニケーションが発達した社会における人間は、そうした共時的な時空感覚のなかに置かれる。これと別なる側面が通時性で、過去-現在-未来へという時間軸にそったものである。(参照:W.リップマンの「疑似環境」、ヴィトゲンシュタインの「言語ゲーム」)

新聞や雑誌などの媒体は、大量伝達という共時性をもちつつ、過去からの最新号までの通時性をもつ。週刊誌の連載小説では「前号(まで)のあらすじ」が掲載される。これは、時間的区切り間隔が大きいため通時性が強く意識されているといえる。一週間単位で行われる講義や授業も、冒頭で「前回までのあらすじ」というのをやると教育効果は上がるかもしれないが、サービス過多かもしれない。

昨年から流行しているtwitterは、一部ラジオ局が積極的に導入している。オンエアの最中に、リスナーがつぶやき、それを番組で紹介するというコミュニケーションは、まさに共時的。ラジオ番組には「リスナーからのお便り紹介」というようなコーナーがよく設けられ、番組によっては、オンエア中にリスナーに電話をして会話をすることもあった。これをtwitterのような今日的なツールに置き換えてリスナーをつなぎ留めるのが放送局の狙いだと思う。twitterは通時性よりも共時性に威力を発揮する泡沫(うたかた)的なツールなのであろう。

以下、妄想。

1995年ごろから個人によって作られ始めたホームページは、日記や身辺雑記が多かった。しかも、不特定多数の人に何かをもの申す、ということが可能になって間もない頃でもあり、人々は特定のテーマや領域について、しゃっちょこばって書いていたような印象がある。続いて隆盛を極めて「日記サイト」も、まだまだ通時性が強く意識されていた。

その後、共時性の高いマスコミュニケーションを題材に、ちょいコメするサイトが増え、話者の属性よりも同じ事象についてコミュニケーションする匿名掲示板が人気を呼ぶようになる。共時的なコミュニケーションの増大は、個人の匿名ブログにも広がったように思う。こうした潮流への抵抗としてソーシャル・ネットワーキング・システム(SNS)が登場し、通時性や話者の属性が意識されるようになる。両者の良いところ取りをしようとしているのがtwitterの140文字世界ではないか。

twitterも、数万~数十万という膨大なフォローとフォロワーとつながっている人は、共時性のなかにはまりこみ、通時的なコミュニケーションを軽視せざるを得なくなるのではないか。つまり、それはダイレクトメールのような宣伝(扇動)効果をもつかもしれないが、信頼や一般的互酬性という社会関係資本(Social Capital)とは呼べないのではないか。

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