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2010年3月 8日 (月)

公民的徳性と一般的互酬性(備忘録)

Kodokunabowling社会学や政治学の世界では明確に区別されているものの、日常生活で混同がちな概念に「公民的徳性 (Civic Virtue) 」と「一般的互酬性 (General Reciprocity) 」とがある。前者は「市民の美徳」などと呼ばれ、近代市民に埋め込まれるべき規範的な精神性のようなもの。後者は「一般化された互酬実践」などの表現をする人もいるが、ようするに「情けは人のためならず」という古くからの日本の諺のようなことを意味する。ただ、この二者は似て非なるものだ。

Putnam, Robert D. (2000=2006) Bowling Alone: the Collapse and Revival of the American Community, Simon & Schuster, New York, (柴内康文訳, 『孤独なボウリング ― 米国コミュニティの崩壊と再生』, 柏書房 )

Civic Virtue は「徳」という言葉が示すとおり、いささか説教めいている。腐敗した中世欧州の宗教的・世俗的権力から海を渡って逃れてきた人々は、アメリカを建国するにあたり共和主義という政治制度を採用した。共和主義とは当時危険視されていたデモクラシー(民主主義)という言葉を巧妙に避けた呼び方で、意味するところはほぼ同じとみてよい。それは、法王や王・貴族のいないところで自己統治をおこなうには、市民=ふつうの人々による討議や合意に基づく自己決定をおこなうものである。

旧大陸では王や貴族、騎士など支配階級の人々には「徳」が要請された。それは目先の私利私欲を超えた思考と行動を生む体系であり、治者の権威を象徴するものでもあった。しかし、被支配階級=普通の人々にはそうしたものは要請されなかった。いきなり、パブリックな問題を解決にあたれと言われても、政治家や法律家のように振る舞うことなど期待できない。そこで要請されたのが Civic Virtue 。それは特殊な「徳」ではなく、市民が市民自身を統治するうえで必要な、それなりの市民として徳--そうした市民の徳は、市民生活を営むコミュニティにおいて陶冶されるべきであるという思想が芽生えた。「地方自治が民主主義の学校」と呼ばれる理由は、建国期のコミュニティ自治の伝統にあり、実践を重んじるプラグマティズムもそうした実践と無縁ではない。

映画『十二人の怒れる男』では、地域で起こった犯罪(パブリックな問題)の司法判断を任された普通の人々が市民的徳性を陶冶されていいく過程がうまく描かれていることを、達夫先生から教えられたが、まさにその通りだと思う。(映画『アラバマ物語』では、差別的な社会のなかで市民的徳性が陶冶されない陪審員たちに苦悩する弁護士の姿を描いており、セットで観ることをお奨めしたい)。いずれにせよ、Civic Virtue は一人ひとりの市民が内面に育てる善なるもので、聖人君子になれと命じる者ではなく、good enough citizenであることを要請する。

これに対し、一般的互酬性 (General Reciprocity) は道徳的な説教臭さはほとんどない。むしろ、最終的にじぶんに利益が得られるように、さしあたり愛他的行動を奨めることを奨励する。「情けは人のためらず」という日本の諺と同じ。短期的な負担を負っても長期的に利益が得られる「ゲーム理論」や「囚人のジレンマ」などの発想にも共通点が多い。映画でいえば、『ペイ・フォワード』のテーマがこれにあたるだろう。一般的互酬性に基づいて行動する人のネットワークがしっかりしている社会は、疑心暗鬼の社会よりも取引のコストが少ない。ポイントは二者間のギブ・アンド・テイクの互酬ではなく、第三者にギブすることで「外部性」を持たせようとすることだ。

R.パットナムは『孤独なボウリング』で社会関係資本(ソーシャル・キャピタル)を論じるにあたり、その中心要素となる「一般的互酬性」と「市民的徳性」を以下のように腑分けする。

社会関係資本は「市民的美徳」と呼ばれてきたものと密接に関係している。違いは以下の点にある--市民的美徳が最も強力な力を発揮するのは、互酬的な社会関係の密なネットワークに埋め込まれているときであるという事実に、「社会関係資本」が注意を向けているということである。美徳にあふれているが、孤立した人々の作る社会は社会関係資本において豊かではない。(パットナム 2000: 14)

ただ、わたしは、Civic Virtue をもうすこし前向きに考えたいと思う。なぜなら、徳の持ち主は他者に良い影響を与えることが多く、孤立しにくいということを、わたしを含めた多くの人が経験的に知っているからだ。巡りめぐって自分に帰ってくることを期待しない「善意」だってあるだろう。なので、「互酬的な社会関係の密なネットワーク」は「市民的美徳」によって生み出されることもあると思うし、むしろ市民的美徳を抜きにした「互酬的な社会関係の密なネットワーク」は、悪の連鎖を生むことも考えられる(この点についてはパットナムも同じ頁で言及している)。

人間の行動はコピーされ、連鎖し、群れのなかで感染を広げていく。役所や学校が作った標語やスローガンでは陶冶されない「徳」も、偉人の伝記を読んだり、尊敬できる人物との出会いから偶然得られることは少なくない。たしかに、善や悪というものは学問として扱いにくいが、「一般的互酬性」だけを徳から切り離す気にはなれない。

美徳と違って、「悪徳」の小さな連鎖の例はいくらでも挙げられる。車を運転中に車線変更するためウインカーを出し、窓から手を出してお願いしているのに、斜め後ろの車から車間をわざと詰められた経験は数え切れないほどある。電車の座席で足を過度に広げたり、荷物を膝上や足下に置かずに隣席に置いて、座りたい人を排除する行為は、いちいち眉をひそめるのがアホらしいくらい日常的だ(松葉杖のときは腹立たしかったが)。職場や学校におけるハラスメントも、「あいつにやられたらから、あいつにやりかえせ」というよりも、「強いヤツにやられたら、自分より弱いヤツにやりかえせ」的に感染していく。ネットワークが善き「外部性」を生ませるため、やはり Civic Virtue に照らした市民社会の倫理を召還しなければならないのではないかなぁ。

パットナムの『孤独なボウリング』については、いま読んでいる最中なので、後ほどあらためて備忘録を記すことにする。きょうはこれくらいで許しといたる。

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