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2010年4月 4日 (日)

その共生は Symbiosis? Conviviality?

Conviviality社会人大学院生も7年目に突入してしまった。入学当時から現在まで、変化もあったが、変わらないこともあった。ずっと胸の奥底にあったのは、なんともいえない居心地の悪さである。入学当時は「まぐれ合格」に喜びながらも、アイボリー・タワーの内側は必ずしも心地よい場所ではなかった。その原因は、アカデミズムとジャーナリズムとの不幸な関係に関連する。二者は基本的に互いを信用せず、ときに憎しみ、見下し、傷つけ合う。だだ、二者は互いを強く必要としているのも否定しがたい事実である。大学院という場にアウェーで参戦して7年目にして、当たり前のことに思い至る。

川本隆史 (2008) 『共生から-哲学塾』 岩波書店,双書哲学塾

研究者とともにいるときは実践者が恥ずかしく思えることがあったし、実践者とともにあるときは研究者が口先だけの存在に映ることもあった。じぶんのアイデンテティが完全にどちらかのに100%埋没していればこんなふうではなあkっただろう。だが私は両方にあしをかけたままであった。アカデミシャンがジャーナリストを嗤うとき、あるいは、ジャーナリストがアカデミシャンを小馬鹿にするとき、どこかでいたたまれなかった。居心地の悪さの原因は、現実世界における二者間の緊張関係というより、むしろ、わたし自身の内面の煮えきらなさにあったように思う。

川本隆史さんの 『共生から』を読むと、最初のところで井上達夫先生の共著『共生への冒険』(毎日新聞社, 1992, pp.25-26)が引かれている。井上先生によれば、人間社会における「共生」は、生物学などで使われている symbiosis (シンバイオシス、もともとは共棲という訳語が当てられていたはず)ではなく、異質な他者を人間として尊重する conviviality (コンヴィヴィアリティ、ラテン語の「祝祭」)であるという。なるほど、 symbiosis は、調和のとれた環境でみんなが居場所と役割が当てはめられたような優しいイメージがあるが、 conviviality は、対立する意見をガチンコで闘わせるような緊張感を伴う。(花田先生の本に書かれていた共同性と公開性を前提とする Öffentlichkeit (市民的公共圏)に近い)

『共生から』のなかで、わたしが最もショックを受けたのは、石原吉郎さんのシベリア抑留体験に根ざす「共生」観である。川本さんによれば、石原さんたちは二人一組で食器を与えられた。その二人組は、まさに疑心暗鬼になるよう状況化されていた。しかし、極寒の夜は一人一枚ずつ与えられた毛布では凍えてしまうので、一枚の毛布を体の下に敷き、もう一枚の毛布を体の上に掛け、二人で背中を接触させて命を長らえたという。憎しみさえ抱く者どうしが互いの体温で眠る感覚が、石原さんにとっての「共生」であった。

それはまず食器の不足ゆえに、二人分の食事をひとつの食器にいれるところから発生しました。その際、抑留者は止むを得ず〈食罐組〉と呼ばれる二人ずつのペアを組みます。この強いられた共生から、食べ物を公平に配分するための方法が考案されたそうです。同じ大きさのスプーンで交互にひと匙ずつ食べるやり方や、食盒の中央に仕切りを立てて中身を折半したり、同じ寸法の空罐二つに盛り分けるといった具合。最後の空罐を使った配分の場合でも、つぎ方によって不公平が生じるため、こんな工夫――つぎ分けを担当したほうが〈食罐組〉のパートナーに後ろを向かせて罐を選ぶ優先権を与える――まで編み出されました。こうして何とか恨みっこなしの配分が一段落すると、「大きな安堵感」が訪れ「私たちのあいだの敵意や警戒心は、まるで嘘のように消え去り、ほとんど無我に近い恍惚状態がやってくる」んだそうです。(pp.24-24)

ぎりぎりのところで、平等、正義、公正さのルールを導きだし、弱肉強食ではない価値のなかで生きる人間たちの、なんとすごいことか。川本さんは石原さんの『望郷と海』から以下の箇所を引用している。(孫引きお許しを)

こうして私たちは、ただ自分ひとりの生命を維持するために、しばしば争い、結局それを維持するためには、相対するもう一つの生命の存在に、「耐え」なければならないという認識に徐々に達する。これが私たちの〈話合い〉であり、一旦成立すれば、これを守りとおすためには一歩でも後退できない約束に変わるのである。[…]私たちをさいごまで支配したのは、人間に対する(自分自身を含めて)つよい不信感であって、ここでは、人間はすべての自分の生命に対する直接の脅威として立ちあらわれる。しかもこの不信感こそが、人間を共存させる強い紐帯であることを、私たちは長い期間を経てまなびとったのである。(pp.25-26)

巷間、「弱い紐帯」の良さがよく語られる。それは、人的資本や経済的資本が潤沢な人たちの口に上りやすい。しかし、人的資本や経済的資本が乏しくなってしまった社会においては、一般的互酬実践など予期するのが間違いというものかもしれない。「弱い紐帯っていいよね」などと言い合ってばかりいられない社会というものが確かに存在し、そこで生きている人たちを、愚かで劣った人たちだと笑うことなどできようか。「金持ち喧嘩せず」というが、貧乏人の身体には喧嘩の生傷が絶えず、絶えず喧嘩のルール作りをしていかなければならないのだ。

命を長らえることを目的とした極限状況でさえ、いや、そうした状況下であったからこそ、「共生」をめぐる思想が身体に埋め込まれ、日々の実践となっていく。石原さんのシベリア抑留体験から編み出された「共生」を受け入れるだけの度量が、いまの私にあるだろうか。とてもじゃないが、自信ない。justice, fairness, egalite, liberty, democracy.....借り物の言葉でそれを説くことができたとしても、それを生きるのは生やさしくはないのだということを思い知る。ジャーナリズムとアカデミズムの対立なんて、取るに足りないどーでもいい問題かもしれない。

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コメント

どうも、「共生」の議論で生物学を「一般的に」引き合いに出されると「笑い」ます。これは、もう、30年も前からのことなのですが、生態系におけるそれは、特に、引き合いに出されるようなケースというのは、たいていは、食いつ食われつの関係なので……。ともに生き延びる、といったケースも一方であるのですが、そういうケースが念頭に置かれているらしいことは稀です。石原吉郎さんのようなケースは後者と思いますが、そこまでいくと、synbiosisでも convivialでもなく、concrescenceに近いような気がします。ちなみに、「共生」を冠した学会に、おつきあいで入ってしまっているのですが、こちらは、対応英語はないということで、kyoseiを使っていて、それはそれで、どっひゃー、という感じでいます。

投稿: Sakino | 2010年4月 5日 (月) 11時26分

>Sakinoさん
 なーるほど、concrescenceですか。手元の辞書では「癒合, 合生, 癒着」となっていますが、石原吉郎さんのケースは、たしかにconvivialなんてものを通り越していますね。
 それにしても「kyosei」とは!

投稿: 畑仲哲雄 | 2010年4月 6日 (火) 02時09分

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