アルコール依存症という少数者
アルコール依存症と闘う少数者にとって、私たちの社会はなんと生きづらい場所であることか。NNNドキュメント'10「妻と夫の…アルコール依存」(2010年07月25日放送)を見て、そう痛感した。アルコール飲料は自動販売機やコンビニでも売られ、飲食店のメニューにも必ず登場する。依存症患者にとって世にあふれかえる酒類から目を背けて生きるのは辛すぎるはずだ。ドキュメンタリーも「お気の毒」的な部分が強調され、当然のことながらアルコールを容認するわたしたちの社会のあり方については言及していない。
ドキュメンタリーの主人公(主婦)は、早稲田大学入学後アルコールを大量摂取して依存症になった。一度結婚をするが飲酒にまつわるトラブルで離婚し、入退院を繰り返す。そんな彼女を両親が懸命にサポートし、やがて彼女はアルコールを絶つことを誓う。同じ境遇の人たちで作る「断酒会」の活動に身を投じ、そこで知り合った男性と結婚し、現在に至る。また飲んでしまうのではないかという恐怖と背中合わせの日々―というのが作品の結末だった。
ムスリムやアーミッシュのような「飲まない」社会とは違い、私たちの社会は「飲む社会」である。20歳を超えれば飲んでよい。飲む/飲まないは個人の自由だけど、コミュニケーションのなかに飲む行為が埋め込まれていることも多い。しかし、「飲む社会」は一定数のアルコール依存症患者を生むし、飲酒による事件や事故も発生させる。暴力や傷害などの事件やセクハラも「酔って勢いで」おこなわれることが多いことを私たちは経験的に知っている。飲酒していなければ救われた命はいくらもあるだろう。
しかし、だからといって、アルコールをコカインや覚醒剤のようにそれを非合法化しないのは、わたしたちの社会が「飲む社会」だからだ。たとえ非適応者や逸脱者を生んでしまっても、それは適応できない人や逸脱した人の問題とされる。正月にはお屠蘇、春には花見やコンパ、夏にはビール、秋には月見・・・ 私たちの暮らしのなかで、アルコールを避けて通るほうが困難である。「飲んではいけない」と自分に言い聞かせている患者には過酷な世界である。
同じ構造の論理はほかにもある。たとえば一定数の薬害を出しながらも多くの人に役立っている製薬会社や、一定の交通事故を生むことが分かっていながら経済効率を高めることに寄与している自動車メーカーを容認する論理である。すなわち功利主義だ。
アルコール依存症患者や、彼ら彼女らをサポートする人たちは、「わが社会は飲むのだ」という社会の意思に対して異議申し立てをしにくく、じぶんで自分を責めがちであるということを多くの人に知ってもらう必要がある。NNNドキュメントにそこまで踏み込めというのは、勝手な無いものねだりではあるが、そんなことを考えさせられた。
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