映画『鉄塔 武蔵野線』と巡礼
映画『鉄塔 武蔵野線』は神話的な作品だった。主人公は小学6年生のミハル。友達を作れず、父母がいがみ合う家庭も居心地が悪い。そんなミハルはある日、鉄塔と出会う。耳を当てると「電波の音」が聞こえた。見上げると、鉄塔には番号が付されている。「武蔵野線 75」。その送電線をたどっていくと、次の鉄塔には「武蔵野線 74」とある。このまま進んでいくと、いつか1号鉄塔に行き着く。そこにはきっと夢のような世界があるに違いない。ミハルはそう確信し、年下のアキラをと「鉄塔調査隊」を結成し、自転車で旅に出る。
長尾直樹監督 『鉄塔 武蔵野線』 (1997、原作: 銀林みのる『鉄塔武蔵野線』)
鉄塔調査隊公式ウェブサイト http://www.actcine.com/tetto/
この映画は、主人公ミハルが鉄塔に対して抱く妄想はあまりにも荒唐無稽である。ミハルは年下のアキラに、鉄塔には「男鉄塔」と「女鉄塔」があり、その複合型があることを教える。ミハルの言葉を噛みしめていると、たしかに一群の鉄塔はどことなく女っぽく見え、別の一群の鉄塔は男っぽく見えてくる。彼らは鉄塔の真下に結界を張るため、瓶ビールの栓(王冠)を埋めていく。ほとんど宗教儀式である。
この映画が教えてくれたのは、鉄塔のある場所は妙なところが多いということだ。鉄塔は人々の生活に邪魔にならない場所に建てられている。それは必ずしも何もない山奥というわけではない。映画のなかで、人がゴミを捨てていく場所と鉄塔がたびたび近くに描かれている。アキラが脱落した後、ミハルは廃棄物の山にある鉄ゴミと化した廃車のなかで一夜を過ごし、アキラが死んだ夢を見る。途中で工事現場やゴルフ場にいた大人から暴力を受けたり、予期せぬ困難が次々襲いかかる。旅が困難であればあるほど、「1号鉄塔」にたどり着きたいというミハルの執念は、純粋な受難となり、輝きを増していく。
ミハルの姿は、遍路であり、巡礼者であった。わたしはふと、P.K.ディック『アンドロイドは電機羊の夢を見るか』に登場する教祖を思い出していた。彼はただの役者にすぎないのだが、人類の罪を一身に背負うかのように来る日も来る日も長い道のりを歩き、倒れ、また歩く。彼は、死と再生の物語を宗教的なビジョンとして人々に送り届ける企業に雇われているマガイモノなのだが、捜査官デッカードの目にはいつしか神々しく輝いていく。
近年、これほど切ない気持ちにさせてくれる映画も珍しい。泣きそうになりました。
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