亡くなった子供の写真
なぜ事件や事故を報道しなければならないのか。そのようなことを考え始めると、じつに厄介だということに気づく。社会全体に大きな影響を及ぼすような、つまり、不特定多数の読者・視聴者にも影響が及ぶような重大事件や重大事故は、公共の福祉の観点から報道しなければならない。そうれは論を待たない。しかし、そうではなくて、ありふれた事件や事故、火事などは、取材の必要はあるとしても、報道の必要はあるのだろうか。掲載許諾をもらうこともなく死者の顔写真を掲載することの正当性は、どのようにして調達できるのか。
新聞記者になって最初に罪悪感を覚えたのは、火事で亡くなった子供の顔写真を接写したり借りたりしたときである。当時はまだ大らかな時代であった。亡くなった子供が通っていた幼稚園や小学校に行くと、遠足や記念撮影の写真を接写させてくれた。それが無理でも、クラスの名簿などはたいてい見せてもらえたので、同級生の子の家に行き、写真を借りることができた。わたしが言葉を失ったのは、「なんで亡くなった子供の顔写真を新聞に載せるのですか」と問われるときである。
「こんな痛ましい火事を二度と起こしてはいけない、こんな可愛らしい子供の命を火事で奪ってはいけないという強いメッセージを記事に込めるためです」
そんな、もっともらしい言い訳をわたしはしていた。嘘ではない。しかし、わたしにとってもっと重要な理由があった。それはライバル紙との競争に負けてはならないという「恐怖」である。つまり、じぶんの評価を落とさないため。市民社会にとってどうでもよい理由で、わたしは写真を探しまわり、不誠実な言い訳をはき続けてきたのである。
そうした渦中から距離を取ると内省する余裕も生まれるが、当時のわたしには、自分が置かれていた状況に順応することこそが最優先事項であって、みずからの置かれた状況を疑うなど、十年早いと自分に言い聞かせていた。25年前のわたしに「なんで亡くなった子供の顔写真を新聞に載せるのですか」と問いかけてくれた何人もの人に、わたしはいまもって、誠実な答えを用意できていない。10年早いどころか、25年も遅い。
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コメント
どう評価されるかは別にして、
それが記者の仕事、となっていることを知らない方も多いでしょうね。
各社で合計すれば少なからぬ数の記者が、右往左往していることに。
>ありふれた事件や事故、火事などは、取材の必要はあるとしても、
>報道の必要はあるのだろうか。掲載許諾をもらうこともなく死者の
>顔写真を掲載することの正当性は、どのようにして調達できるのか。
考え始めたら、日々の「仕事」ができなくなる。
考え続けなくちゃいけないのだが、どっかにしまい込んで、そしていつか忘れてしまう。
マス・メディアの中でのそういう「必然」って結構ありそうな気がする。
投稿: ママサン | 2010年8月 9日 (月) 06時58分
25年前、支局記者だったわたしは暗室で「水遊び中におぼれてしまった幼稚園児」の写真を現像していました。父親の仕事場に関心があった長女(小学三年)が入ってきて「(そういう写真を新聞に載せて)怒られないの?」と聞くのでありました。「ああ、この子の方がまっとうな神経している」と思ったのを思い出しました。
投稿: schmidt | 2010年8月 9日 (月) 12時16分
何とも言いがたく‥‥。
でも、写真を載せる載せないは別として、
事件事故の報道には私も疑問があります。
いつから新聞は不幸の寄せ集めになったのだろう。
せめてもの救いはたまに読むコラム欄。
記事ではなくコラムを読むと人の呼吸が聞こえます。
それはまだマシなのかな‥。
立場が違うので気に触る表現があればお詫びします。
考えさせられる独白でした。
投稿: mine | 2010年8月 9日 (月) 15時31分
>ママサンさん
人の死に踏み込んでしまう職業は、どこか麻痺してしまうところがありますね。
おそらく司法関係者や医療関係者の一部も、嘆き悲しむ人たちの気持ちに寄り添い、センチメンタルになっていては、仕事が進まないのでしょう。
それがスペシャリストというものなのだよ、というふうにシニカルに割り切ることもできるかもしれませんが、ときおり悩み立ち止まることで、ようやく自分のバランスを取れる・・・そんな気がします。
>schmidtさん
記者にとって何気ない日常の一コマを、無垢な目で射貫かれる。強烈な経験ですね。
>mineさん
息づかいが聞こえてくるようなコラムやエッセーは泉のような存在ですね。
ところで、「不幸の寄せ集め」と言われると、そうか、そういう印象を与えていたのかと反省せざるを得ません。じつは数年前、ある方をインタビューしている最中に、「新聞はバッシングしてばかり。人や組織を叩き、ツルシあげ、馬鹿にし、追い詰める。ナニ様だよと思うことがある。朝一番に新聞紙を広げたいと思わないんだよ」と叱られ、当惑したことがあります。
投稿: 畑仲哲雄 | 2010年8月 9日 (月) 17時20分
>人の死に踏み込んでしまう職業は、どこか麻痺してしまうところがありますね。
はい。
戦地の恐怖を伝えるのに、地雷で足を吹っ飛ばされたばかりの人の映像があれば、美味しいと思う感性。
確かに、それは現実ではあるのですが。
つないでいる瞬間に、人としての痛み、を忘れていたりする。
「仕事」で作り上げてゆく自分と、
「本来」の自分と、
どっちが勝つのだろうか・・・・
投稿: ママサン | 2010年8月 9日 (月) 20時26分
>ママサンさん
戦争反対というように、目的は崇高だけど手段がちょっと・・・・というのは、よくわかります。
誤解を恐れずに嫌な言い方をすれば、多くの人間にはエグイものを見たいという欲望や、「他人の不幸は蜜の味」という心性があるような気がします。視聴者や読者のそういう心性を、わたしたちは薄々感じているけれど、ぜったいに口にしないし、そこには目を向けない。
送り手と受け手の共犯関係がそこに生まれるのではないでしょうか。
投稿: 畑仲哲雄 | 2010年8月 9日 (月) 21時49分
>誤解を恐れずに嫌な言い方をすれば、多くの人間にはエグイものを
>見たいという欲望や、「他人の不幸は蜜の味」という心性が
>あるような気がします。
嫌な言い方でもなんでもなく、ある、と思います。
「こんな可愛い子が」という自己満足のためのドラマを読者・視聴者が作るための道具集めをメディアの人間はやっているのかしれません。
>視聴者や読者のそういう心性を、わたしたちは薄々感じているけれど、
>ぜったいに口にしないし、そこには目を向けない。
そこまで考えている「送り手」。矛盾を感じている「伝え手」がどれくらいいるのかでしょうね。
マス・メディアの自浄能力がいろいろな場面で問われますが、
ここが着目されることはあまりない。
>送り手と受け手の共犯関係がそこに生まれるのではないでしょうか。
そう、思います。
政治報道が政治家報道、政局報道に堕すのも、簡単に理解可能な「物語」を読者も記者も求めているのだと思います。
それが真実ではなくとも。
裁判で決着がつくころには忘れてますから。
投稿: ママサン | 2010年8月10日 (火) 06時29分
>ママサンさん
ご指摘の通り、「簡単に理解可能な「物語」を読者も記者も求めているのだと思います」というママサンさんのコメントにすべて収斂されていきそうです。
でも、送り手と受け手が、単純化された「物語」を面白おかしく消費できればWin-Winでいいじゃないか、というふうに突き放せない。
社会の圧倒的多数者が満足するような「物語」を次々と提供することがジャーナリズムの使命ではない。
かといって、人々のを「正しい」方向に指導する啓蒙的で教育的な「物語」を流すなんて、一歩間違えば扇動もしくは洗脳です。
じゃあ、どうすればいいか。
わたしは、トクヴィルの言ったことをもう一度噛みしめるしかないと思うのです。
投稿: 畑仲哲雄 | 2010年8月10日 (火) 09時40分
>送り手と受け手が、単純化された「物語」を面白おかしく消費できれば
>Win-Winでいいじゃないか、というふうに突き放せない。
諾。
当事者として、突き放したら、お終いですよね。
トクヴィルの言葉は存じませんが、
自分が相対するものに対して、常に真摯であること。
真摯にそれを伝えようと努めること。
背負ったものに責任を負おうとすること。
抽象的ですが。
自分が作ったもんが、10年後、20ネゴにも、検証に耐えうるようなものにする。
結局、覚悟、なんでしょうか。
投稿: ママサン | 2010年8月13日 (金) 16時44分